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「自分を救わない神の子」 牧師 竹島 敏
哀歌5章15—22節 マタイ27章32—44節 『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ』(マタイ27・42) (神にゆだねて)あえて自分で自分を救おうとはせず神にゆだね続けゆだねきった‥、それが、あの十字架の上で主イエスがなさったことだった。そこまで神にゆだねきり、従順であったからこそ主イエスは「神の子」であったのだ。そして私たちもまた自らの生涯において、十字架という不条理を、また暴力を、受けることがあるかもしれない、と思わされる。正しいことを行ってそのような不条理な苦しみを味わわされることがあるかもしれない。しかし、私たちそれぞれの日常の場、たとえば家庭や、学校や、職場において、そのような苦難を受けることがあるとしても、決して暴力に対して暴力で返さず神にゆだね続けゆだねきった主イエスの姿勢を、まず見つめたいと思う。 (十字架を背負って従う)今朝のマタイ福音書の一番最初の32節には、「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」とある。本当にたまたまそこを通りかかったキレネ出身のシモンという人が、十字架の横木を担がされることになった、というわけだ。キレネにはディアスポラのユダヤ人が多く住んでおり、彼らはエルサレムに会堂を持っていた。シモンは過越祭のためにやってきていたのであろう。そこで彼は本当に思いもかけないことに出くわすのだ。シモンにしてみれば本当に思いがけないことであり、また、不本意なことでもあっただろう。なにしろわけもわからず突然、十字架の横木を背負わされたのだから。しかし、このように、シモンは自発的にではなかったが、「十字架を背負って従った」最初の人物になったのだ。そしてこれは、私たちが十字架を背負う、という事柄の本質を非常によくあらわした出来事だったのではないだろうか。おそらくこの時シモンは、突然無理矢理十字架の横木を背負わされて、いったい自分の身に何が起こったのか、すぐには理解できなかったのではないだろうか。 (十字架の主イエスを見つめて)そして私たち一人一人にとっても、十字架を背負うとは、そのような出来事であると言えないだろうか。突然どんと背中に重荷を載せられて、最初は、いったい何が起こったのかもよくわからない‥、しかしとにかく、背負わされてしまった以上、歩き出すしかない‥、そして歩いているうちに、背負わされたものが十字架であることに気づき、その意味を考え始める、ということなのではないだろうか。こんにち、私たちの日常の場には様々な威圧と暴力が満ちている。そのような状況においては、本来愛しあうために‥、仕えあうために授けられた人間の言葉も、威圧と暴力に容易に変わってしまう。人から受けた威圧や暴力を、自分の力で跳ね返そうとするところに、威圧や暴力の連鎖が起こりがちだ。しかし私たちキリスト者は、自分で自分を救おうとする前に、まず、自分を救おうとしなかったあの十字架の主イエスを見つめる。神に全てをゆだね、ゆだねきったあの十字架の主イエスを見つめ続ける。そしてその時に初めて私たちは、やられたらやり返すというこの世の論理から解き放たれ、威圧や暴力の連鎖から解き放たれ、まことの平和を生み出す者達として用いられはじめるのだ。今日から始まるこの受難週、私たちは、様々な威圧と暴力が満ちている私たちのこの世界、そして日常のただ中に、今も、十字架につけられたままでおられる主イエスの御姿を見出し、その御姿を見つめ続けて、私たち一人一人に対する新たな御導きを求めていきたいと思うのだ。
by mizo_church
| 2009-04-18 23:29
| 礼拝メッセージ集
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