日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「言葉を信じる」 牧師 竹島 敏
列王上17章17—24節 マタイ12章38—42節 『ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる』 (マタイ12・40) (神に背き続ける時代)よこしまで神に背き続ける時代のなかで主イエスは、たくさんの心ない言葉を投げつけられた。そして十字架につけられていく道のりにおいて、多くの侮辱の言葉を受けられた。そのような侮辱の言葉の数々を受けて、主は全く動じなかったかと言えば、そんなことはなかったと思う。そのひとつひとつの言葉に主は深く傷つきながら、十字架への道を一歩一歩すすめていかれたのだと思う。そのように人の言葉の恐ろしさをご自身の身に深く刻みつけながら主は、十字架にのぼっていかれたのだと思う。このように私たちの主イエスは、言葉の大切さ、また、言葉の恐ろしさを知り尽くした方であった。だからこそ、言葉を、自分を守るためのたんなる道具として軽く扱う人たちを厳しく戒めたのであろう。「しるしではなくまず、自分が扱う言葉をもっと慎重に、大切にあつかいなさい、と‥、」そして今日の聖書の箇所は結局、主イエスの言葉こそが希望に満ちた終末の「しるし」である、と告げているのだ。よこしまで神に背いた時代のなかで、むやみに「しるし・証拠」を求めたりせずに、もっと相手の言葉を信頼して、ゆるしと愛に生きよ、という促しがここにはあるように思う。ではどうすれば、神不在に見えるこの時代のなかで、そんな生き方が可能になっていくのだろうか。 (主において常に喜ぶ)私は、イエスが生きた時代と共に、やはり、神に背いた時代と言わざるをえない時を生きたパウロの生き方に、その可能性を見いだす。パウロはフィリピの信徒への手紙4章4節において、「主において常に喜びなさい」と語りかけている。そしてこの手紙の最後のところで繰り返して、「いつも喜びなさい」とフィリピの人達にすすめている。おそらくこの「主において常に喜びなさい」ということが、この手紙の中でパウロが最も伝えたかったことだったのだろうと思う。それにしても、この「喜ぶ」という言葉には、いつもにこにこ笑顔で明るくしている、というイメージがある。しかし果たしてパウロは、そのようなことをフィリピの人達に求めていたのだろうか。いつも、どんな時も、にこにこ笑顔で明るく過ごすことがクリスチャンの幸せにとって不可欠なことと考えていたのだろうか。この「主において常に喜びなさい」という言葉について、私達はもう少し厳密にその意味を探っていかなければならないのだろう。ここは最終的には次のように訳せるのであろう。「主の守りの中で、あるいは、主の導きの中で、今まで以上に…、これまで以上に…、晴れやかでいなさい…、また、輝いていなさい」と。 (御言葉に賭けて生きる)よこしまで神に背いたこの時代のなかで私たちもまた、つい、しるし・証拠を求めたくなる時があるのかもしれない。しかし、そのような誘惑に陥ることなく、主イエスの言葉を信じよ、その言葉に賭けて生きてみよ、という促しが、ここにあるように思う。また人の言葉に裏切られることもあるかもしれない‥、まただまされることもあるかもしれない‥、しかし、それでもなお、主の守りの中で‥、主の導きの中で‥、人の言葉を信じ、今まで以上に…、これまで以上に…、晴れやかに、輝いて歩んでみよ‥、という促しがここにはあるのではないかと思う。確かにそれは簡単なことではないのかもしれない。しかし、そのような生き方が少しでもできた時に初めて私たちは、人の言葉を軽んじるこの時代のむなしさから解き放たれ晴れやかに、そして輝いて生きることができるのではないかと思うのだ。
by mizo_church
| 2009-05-31 21:01
| 礼拝メッセージ集
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