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「イエスの道」 牧師 竹島 敏
サムエル下1章17—27節 ヨハネ14章1—11節 『わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』(ヨハネ14・6) (イエスを見る)教会に通い始めた頃、私には神がよくわからなかった。しかし、ヨハネ福音書14章の9節後半には、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とある。この言葉に出会ってやっと私は、キリスト教の神がわかるようになってきた。すなわち、イエスを見た者は神を見たことになる‥、だから大切なのは、神について様々に思いを巡らすことなのではなく、聖書を読むことを通してまた、祈ることを通して、イエスという方をしっかりと見つめることだけなのだ、とわかった。そのように気づいてみると、実に当たり前のことなのだが、「神」という言葉にとらわれ、自分が幼い頃からふれてきた、キリスト教の神以外の神のイメージに惑わされたり、混同してしまったりしていたのだった。イエスが神なのだ、イエスだけを見つめていればいいのだ、その事がわかった時、やっと私は神、という言葉から解き放たれて、イエスを見つめること、そしてイエスと共に歩む道へ踏み出すことができた。そしてイエスのことがだんだんわかってくると、幼い頃からそれまで私の心に形成されてきていた神のイメージが、どんどんくずされていったのだ。 (アッバなる神)たとえば、「父なる神」という表現だ。教会は伝統的に「父なる神」という表現を用いてきた。しかし、教会が伝統的に用いてきた「父なる神」という表現と、イエスが用いた「父なる神」という表現は同じなのだろうか。確かにイエスは神を「父」と呼んだ。しかし、より正確に言えばそれは「アッバ」という言葉になる。「アッバ」とは、アラム語で「おとうちゃん」という言葉になる。いわゆる幼児語で、幼い子どもが甘えて父親を呼ぶ時の表現だ。イエスはそのように神を「おとうちゃん」と呼んだのだ。イエスにとって神とは、それほど親しく近しい存在だった、ということなのだろう。同じ「父」という言葉であっても、その言葉が指し示す内容が異なる場合もある。イエスの、「父」という言葉が指し示したものは、「アッバ」、すなわち「おとうちゃん」という存在であった。大きな声で‥、大きな力で、思いのままに無力な子どもを支配しようとするような存在ではなかった。もっと言えばそれは、時に、母親のような全てを包み込むやさしさを持った存在であった、とも言えるのだろう。さらに、父親とか母親とかいう性を越えた存在‥、どんな人間の親も持ち合わせていないような大きな柔らかい愛情で包み込んでくれる存在であった、と言えるのではないだろうか。そしてそうだとすれば、イエスが指し示した「父なる神」は、当時の父親像とは、まるで異なったものであった、と言えるのではないだろうか。確かにイエスは神を「父」と呼ばれた。だから私たちが神を「父」と呼ぶ事は間違いではないし、むしろ、ふさわしいことであるのかもしれない。しかしそうであればなおさら私たちは、聖書のイエスを見つめることに集中し、イエスが神を「父」と呼ばれたその真意を、しっかりと認識していなければならないのだと思う。 (神を証する)そのように、主イエスのみをしっかりと見つめることを通して私たちは、6節に記されている「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という主イエスの言葉を実感することができるのだ。私たちが生かされているこの日本にも、実に様々な神がいることを思う。しかし様々な神が私たちの日常をおおっている中で、主イエスが導かれる道を、主イエスと共に歩むことを通して、まことの神を証していきたいと思うのだ。
by mizo_church
| 2009-05-31 21:06
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