日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「神の国を受け継ぐために」 牧師 竹島 敏
イザヤ6・1—8 エフェソ1・3—14 『神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました』(エフェソ1・3) (絶望から希望へ)先週私たちは、ペンテコステの礼拝をお献げした。私たちの共同体にも新たに聖霊がくだり、その聖霊の導きによって私たちは新たな歩みを始めた。今朝の14節において、その聖霊は私たちが神の国を受け継ぐための保証である、と言われている。聖霊を受けるなら私たちは神の国へと向かう働きに招かれ、導かれていくのだ。確かに神の国へと向かっていく働きは、時に、停滞してしまっているかのように‥、あるいは、逆行してしまっているかのように‥、感じることもあるかもしれない。けれども、そのような時こそ、それは私たちだけではなく、あのエフェソの信徒たち一人一人もそうだったのだと、思い返したいと思う。私たちの目にうつる現実だけではなく、もうひとつ別の‥、主イエスの目にうつっている現実があるのだということを覚えたいと思うのだ。いつも主イエスが共にいてくださり、私たちの目にうつる日々の現実にあらたな光を注いでくださるのだ。ほとんど絶望的な状況しか見えていなかった現実に、別の明るい光が少しずつでも見いだせるようになってくるのだ。それが、私たちに与えられるかけがえのない一筋の光なのだ。その一筋の光の道を私たちは主イエスと共にあらたに歩み出すのだ。それがあのペンテコステの出来事‥、あのペンテコステにおいて、私たちが神から期待されたことだったのだ。聖霊を豊かに受けたなら、それまで私たちの目には絶望にしか見えなかったことが、少しずつ希望に見えてくる。全てが絶望というわけではなかったと、思えてくるのだ。絶望のかたまりであったような未来に、少しずつあたたかい光が差し込んでくるのだ。今朝の12節に記されてあるように私たちもまた、このキリストに希望を置いて生きていけるようになるのだ。 (慰め合い励まし合いつつ)ところで、今朝の13節の「約束された聖霊で証印を押された」とは、洗礼を授かったということを意味している。そして12節と13節においては「わたしたち」と「あなたがた」という使い分けがなされているが、この「わたしたち」とは以前からキリストを信じ、キリストに希望を置いていたものたちのことであり、「あなたがた」とは比較的最近洗礼を受けてこのイエスの共同体に加わった者達のことだ。だからここでは、以前すでに洗礼を受けた者達が、最近洗礼を受けた者達を励ましているのだ。「私たちもまた、落胆することは未だに多くあるけれども、キリストに希望を置き続けることによって新たな道を見いだしているのだ‥、」と。最後の14節においてそのような「わたしたち」も、「あなたたち」も、終末の時にはきっと、神をほめたたえ、大いなる喜びに包まれるだろう‥、という期待が表明され、それがここでの結びの言葉になっている。そのような終末の日‥、救いの完成の日が待望されている。 (希望の霊を受け続ける)そして「私たちエフェソの共同体は必ずこの神の救いの計画に入れられている」という確信が14節最後の「神の栄光をたたえることになるのです」という言葉で表明されている。溝ノ口教会の私たちもまた、このエフェソの信徒たちにならってこのような確信を表明したいものだと思う。そのために真摯に礼拝に参与し続けることによって共に豊かに聖霊を受け続けたいと思う。絶望のかたまりであったような未来に、少しずつあたたかい光が差し込んでくる‥、そのような恵みを、私たち一人一人にもきっと与えてくださるキリストに希望を置いて歩んでまいりたいと思う。
by mizo_church
| 2009-06-18 10:12
| 礼拝メッセージ集
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