日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
画像一覧
|
「神の業に仕える」牧師 竹島 敏出エジプト6・2—13 マルコ福音書13・5—13 『主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた』(出エジプト6・13) (神の課題)今朝の出エジプト記においてモーセは神から一見無謀ともいえる使命を担わされている。しかしモーセはそのことを素直に神に申し上げ、神とぶつかりあいながら次第にその使命を受け止め、受け入れるところへ導かれていく。私たちもまた、それぞれの日々の歩みにおいて「これはとても自分に負えるような荷ではない」とつぶやかざるをえないような課題を負うことがあるかもしれない。しかし少なくともそれが、神から与えられた課題であるならば、必ず神ご自身がその課題を共に担ってくださる‥、いや神はすでにその課題の解決に向けて、御自身の業をすすめておられる‥、ということを、心に覚えておきたいと思う。もしかしたら神は、私たちが背負わされた課題をも含むもっと大きな課題とすでに取り組み、すでにその課題解決のために、御自身の業を始めておられるのかもしれない。そしてその過程において、この私が選ばれ、その業の一端を担うことになったのかもしれないのだ。そうだとすればこれはもはや、私に与えられたやっかいな課題などではなく、神の業だ。神の業に仕える、ということだ。(神の視点で見つめ直す)今日、困難なこの時代のなかで多くの人が、次々と与えられる課題に押しつぶされそうになりながら生きている。しかし、そのようななかで、本当に真剣に神の助けを求めたか‥、また、きっと神は助けてくださると信じたか‥と問われた時、「はい」と素直に答えられる人は、クリスチャンであってもそう多くはないかもしれないと思う。何かのついでのように祈り、何かのついでのように願い事を申し上げることはあっても、日曜日以外のふだんの生活においては、どっぷりとこの世的な生活につかり、この世的な価値観につかって生きている、また、そう生きざるをえない、という現実が確かにあるのかもしれない。しかし、そのような日々から抜け出して今朝、こうして神の御前に私たちは集められているわけだが、今朝の二つの聖書の箇所を通して私たちは、私たちが負っている大小さまざまな課題を、今一度、神の側からの視点で見つめ直してみなさい‥、と言われているのではないだろうか。(共に担おうとされている神)カトリックの司祭ミシェルクオストはこう言っている。「もし神に聴くすべを知っていたら、もし私たちのまわりを見回すことを知っていたら、生活全体が祈りになるだろう。神の目のもとで展開される生活は、すべてどんなものでも、自由に神に献げられずにはいない」と。私たちはもっと自由に、そしてもっと率直に、神にすべてをうちあけ、神との交わりを求めてよいのではないだろうか。その時、神は私たちが負っているさまざまな課題を、ご自身の手にとって、共に担い、また、それを神御自身の業へと引き上げてくださるのではないだろうか。そして神は、その様々な課題の解決に向けて御自身の業をすすめられ、その過程の中で、ふたたび私たち一人一人をその業に招き入れてくださるのではないだろうか。本当は、神はすべての課題を私たち一人一人と共に担おうとされているのに、私たちの方が、それを拒否し続けている‥、ということなのかもしれない。最後にミシェルクオストの言葉を、もう一つ御紹介して終わる。「父なる神がわたしたちをこの世に送ってくださったのは、この世から目をそむけて歩くためではなく、物質やできごとや人間を通して、ご自身を探し出させるためである。すべてのものは、わたしたちに神の御心をあらわす『よすが』となる」。
by mizo_church
| 2010-01-10 22:59
| 礼拝メッセージ集
|
ファン申請 |
||