日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
画像一覧
|
「主は心によって見る」牧師 竹島 敏サムエル上16・1—13 マルコ福音書10・17—31 『人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』(サムエル上16・7) (心によって見ることはできない)エッサイの息子たちのなかから次の王を選ぶという使命を担ってやってきたサムエルだが、最初彼はエリアブに目を留めた。「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」と感じたのだ。けれども、「エリアブではない」という神の声があり、さらにサムエルの選び方の基準が神から問われてからは、サムエルは選ぶことができなくなり、次々と自分の目の前を通り過ぎるエッサイの息子たちを、呆然と見ていたのではないか‥、という気がする。最終的に末の子ダビデが選ばれた時も、少なくともエリアブに目を留めた時のようなひらめきを、サムエルは得ることができていない。「この人だ」という神の声が臨んで、その声に従うかたちで、ようやく選ぶことができたにすぎないのだ。そのように見てみると、つまるところサムエルもまた、神が見る見方で‥、すなわち「心によって見る」ことはできなかった‥、ということなのではないだろうか。(互いに限界を知る)よく、人を外見や経歴で判断してはいけない‥、と言われる。本当にその通りだと私たち誰もが考えることだと思う。けれども実際に私たちはそうできているのかどうか‥、と言えば、できていないし、これからも決してできないのではないだろうか。ここで、神が言われているように「容姿や背の高さに目を向けてはならない」と思いつつも、実際には目が向いてしまう‥、それが、私たち人間の限界なのだと思う。そして大切なのは、それが限界なのだということを知っておく、わきまえておく、ということなのではないだろうか。人はどこまでいっても、神が見るような見方で人を見ることなどできない‥、そのことを私たちはわきまえておく必要があるのではないだろうか。しかしそのことは私たちにとって決して落胆すべきことではない。むしろ、日々の人間関係において、そのような限界を互いの共通認識として知っていることが、私たちの救いになるように思う。(自分の目を疑い神の目を信じる)私たちは、互いに理解しあうことを諦めることができずに、いつまでも、相手を「理解できない」、また、自分は「理解されていない」、と、苦しむことがある。しかし、そもそも互いに不完全な人間である以上、完全に理解し合うことなど不可能なのだと思い知ることこそが、最も大切なことなのではないだろうか。そしてそのことを諦めた時初めて私たちは、互いのことを全て神にゆだね、許し合う道へと徐々に導かれていくのではないだろうか。サムエルもまた、自分の目で、次のイスラエルの王を選ぶことを諦めたからこそ、神の目にのみたよる想いへと導かれたのではないだろうか。彼が、正しくダビデを選ぶことができたのは、自分の目を、もはや信じることができずただ、神の前に立ちつくして、神の目に全てをゆだねたからであった。私たちはしばしば、深刻な人間関係の危機に立たされ、理解できない‥、理解されない‥、と悩み苦しむ。しかしどうか、そのような時こそ、人の心・内面を全て正しく見通されるのは神だけだ、ということに想いをはせたいと思う。その神のまなざしから支えと慰めをいただいてこそ、謙遜に、ゆるしあいながら、少しずつでもわかりあっていくという道が、あらたに見えてくるのではないだろうか。深刻な人間関係の危機に立たされ、理解できない‥、理解されない‥、と悩み苦しむ絶頂の時にこそ、自分の、また自分たち人間の限界を受け入れ、前向きな「諦め」をもって、いったんは全て神のまなざしにゆだねる‥、そこにこそ、まことの解決に向かう扉がある、と、今朝、聖書は私たちに告げているのではないだろうか。
by mizo_church
| 2010-01-10 23:01
| 礼拝メッセージ集
|
ファン申請 |
||