日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「主イエスの教えと業」牧師 竹島 敏申命記30:11-15 マルコ1:21-28 『人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである』(マルコ1:22) (主の宣教)主イエスの宣教は、言葉だけではなく、極めて具体的な業でもありました。ここで主イエスは、実際に、「汚れた霊」にとりつかれていた人を癒すという業によって、イエスの神の国が近づいていることをお示しになったのです。それが、この地上において、イエスがなさった宣教でありました。ですから、何よりもこの宣教を受け継ぐ教会には、人の権威ではなく主イエスの権威が‥、神の国をこの地上にもたらす主イエスの権威が充ち満ちていなければならないのだと思います。そのために、教会の交わりにおいて私たちは、一人一人が、主イエスと出会えるように、配慮しあう、ということを何よりも大切なこととしなければなりません。また主イエスの業は、私たちにははかりがたい‥。主は時に、私たちの思いや考えをはるかに超えて宣教の業を起こされるということも覚えておかねばなりません。「そんなこと起きるはずがない‥、」と私たち人間が決めつけてしまうと、その業は起こされないままになってしまうのです。なぜなら主は、私たち一人一人を用いて、宣教の業をすすめるお方だからです。その私たちが身を引いてしまったら、多くの場合、主イエスの宣教の業は起こりようがなくなってしまいます。ですから私たちは常に、主イエスが今、この地上の世界をどのような眼差しで見つめておられるのか‥、そしてどのような新たな導きを私たち一人一人に用意してくださっているのだろうか‥、と、思いめぐらしていることが大切です。そして、心を開いていることが大切なのです。(主の業を待つ)ところでキリスト教にも、いろんな聖書解釈や、いろんな立場があります。私たちの属する日本キリスト教団内の諸教会にも、いろんな聖書解釈や、いろんな立場があります。それは、主イエスの働きの多様性と豊かさをあらわしているものだと言えるでしょう。しかしなかには、自分たちの立場を絶対化して、他の立場を認めない‥、という人達もいます。自分たちと対立する立場がありうると認めることは、自分たちの確かさが崩れるかもしれないことを認めることでもありますから、不安になるのでしょう。しかし私たちは、自らの確かさをも主イエスにゆだねて、不安に耐えて、私たちの思いや考えを超える主イエスの業を待たなければならないのです。教会を右より、だとか、左より、だとかいう言い方で分けようとすることも、本来的ではない、と思います。そうではなくて、「あの、主イエスの教えと業に従っている教会なのかどうか」、「今もなお、このマルコ福音書において語られている教えと業が実現するよう努め続けている教会なのかどうか」‥、本来、そのような基準で見られなければならないことだと思うのです。この「主イエスの教えと業」から右にも左にもぶれずに、まっすぐに歩み続けている教会なのかどうか、そのことが問われなければならないのです。(主の権威に従って)私たちが生かされているこの時代にも、「汚れた霊」、すなわち、神に創られた私が、ありのままの私として生きていくことをゆるさない、さまざまな霊の力が存在しています。様々な抑圧や差別を生み出す「汚れた霊」の力は強く、時に、教会の中にまで、その霊の力は及んできます。しかし私たちは、何よりも教会にとって大切なことは、人の権威ではなく主イエスの権威が‥、神の国をこの地上にもたらす主イエスの権威が教会の中に充ち満ちていくことなのだということをしっかりと心に刻みつけて、命と幸いを得る道を、一歩一歩、すすんでいきたいと思います。
by mizo_church
| 2010-03-21 19:46
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