日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「死と復活の予告」牧師 竹島 敏哀歌3:1-9 マルコ10:32-45 『このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか』(マルコ10・38) (主の覚悟)弟子たちの先頭に立ってエルサレムへすすんでいかれる主イエス‥、今朝のマルコ福音書は、そのような、神の御心にまっすぐに従いゆかれる主の姿を描いています。しかし、32節の後半を見ると「それを見て弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とあります。すでに、十字架の死と復活について聞かされていた弟子たちにしてみれば、それでもなお臆することなく、先頭に立って進まれるという姿勢は、やはり、驚くべきものだったのでありましょう。そこで主は、これから御自身の身に起こること‥、すなわち、十字架の死と復活について再び話を始められました。そして今朝の最後の45節においては、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」、また主は「自分の命を献げるために来た」とも語っておられます。ここで何よりも主がおっしゃりたかったのは、仕え合う、ということだったのだと思います。また、ここを見ると、仕える、とは自分の命を献げることでもあると、主は思っておられたことがわかります。(自分の十字架を背負う)主が献げつくし仕えつくしてたどり着いたその最期は十字架でありました。誰からもうやまわれず、したわれず、見捨てられて、苦しみ抜いて死んでいかれました。しかし、そのような主の心のなかには、この死をよく見ておきなさい、という想いがあったのではないでしょうか。このような悲惨な死をへて、人の子は栄光の座につくのだということを伝えようとされたのではないでしょうか。そしてそのようなイエスのあとに従っていく、ということは、自分もまた、そのような人生を歩む、ということを承認することでもあるのです。38節において主は「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と弟子たちに問われました。ここで主は、十字架という苦しみを、杯と同時に、バプテスマにたとえておられます。つまり、イエスのバプテスマを受けて歩む、ということは、自分に与えられる十字架を背負って歩むことだと主はここで語っておられるのではないでしょうか。(主のからだのぬくもりを感じつつ)私たちが遣わされているそれぞれの場は、イエスが説かれた聖書の価値観、神の国の価値観に相反する状況に満ちているのかもしれません。そのような状況に取り囲まれ、従わざるをえない場合もあるのかもしれません。しかしそれでもなお私たちは、私たちが、本来よって立つべきなのは、聖書の価値観、神の国の価値観の方なのだということを覚えていなければならないのでしょう。希望や理想を語ることがきわめて難しくなりつつあるこの時代の社会において、しかしたとえ、生きているうちにその成果を見ることはなくても、主にある希望や理想を背負って歩む生き方こそが、私たちキリスト者の生き方である、と、今朝のこの箇所は私たちに示しているのではないでしょうか。そのように生きてみようと一歩を踏み出す時にはじめて私たちは、十字架の主イエスのからだのぬくもりを感じることができるのだと思います。誰からも、うやまわれず、したわれず、見捨てられて、苦しみ抜いて死んでいかれた主‥、私たちが正義を全うするために味わう全ての苦しみをすでに十字架の上で担ってくださったこの主が共にいてくださる‥、私たちは現実のそれぞれの場での矛盾に苦しみつつも、そこに希望をおいて‥、十字架の向こうから差してくる光を見上げつつ、歩んでいきたいものだと思います。
by mizo_church
| 2010-06-05 00:31
| 礼拝メッセージ集
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