日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「教会の希望」牧師 竹島 敏列王上10:1-13 テモテI 3:14-16 『神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です』(テモテI 3:15) (パウロが大切にした教会)かつてキリストの教会を迫害し続けていたパウロでしたが、今は、自らの命をかけて教会を守ろうとしている‥、キリスト信仰にとって、教会は、なくてはならないものだと考えていたことが今朝のテモテへの手紙からわかります。ではそれほど大切な教会とは、いったいどんな場所なのか、今朝はあらためて御一緒に考えてみたいと思います。(教会の本質)なぜ、私たちは教会に集うのでしょうか。そもそも私が、聖書と出会い、キリスト教の教えを学ぶことができたのは、教会のおかげでした。教会の存在があって‥、そこでの様々な人間関係にわずらわしさを感じたり、時には傷ついたりしながらも、『教会が世界と教会の主にいますイエスキリストに服従する事によってのみ教会であり続ける』ことを信じて、宣教の業に仕え続けてきた信徒や教師によって教えはひろめられ、私もまた、その恩恵にあずかったのでした。つまり実際に教会に行っているか行っていないかに関わらず、キリスト教の教えにふれた者は皆、教会の宣教の業にふれた‥、その恩恵にあずかった‥、ということなのではないでしょうか。私もまたその恩恵にあずかってキリスト教の教えを深く学ぶことができたのでした。そして何よりも教会とは、行きたいから行く場所なのではなく、主イエスが、この私を招いておられるから‥、そこへと導いておられるから行くところなのです。そこに招かれ、導かれている者は、誰一人、主イエスのゆるしなしに、そこに集うことなどできない者たちです。そのような、愚かな罪人たちが、ただ主イエスの憐れみによってそこに集うことを許され、自らの愚かさを深く見つめ、そこから目を転じて、憐れみの主を見上げる時にこそ、まことの希望が与えられる‥、それが、教会なのだということを、私たちは覚えておきたいものだと思います。(絶望から希望へ向かう)今朝のテモテへの手紙においてパウロが語っているように確かに教会は神の宮であり聖霊の宿るところです。しかし、そこに集う人間は決して聖いわけではない‥、どんなにあがいてみても決して聖くなどなれない者たちなのです。そしてもはや、自ら聖くなろうなどと誤った努力をする必要などなくなった者たちなのです。私たちの教会の希望は、私たち全ての者が、主イエスの御前では、愚かな罪人の一人にすぎないのだということを、心底認めるところから生み出されます。傲慢な想いが徹底的に打ち砕かれ、一度、自分自身に絶望し、隣人にも絶望する‥、そこから、本気で神に向かい‥、主イエスに向かって‥、すがりついて歩んでいきたいという心の態度が形成されるのです。教会に集う者たち皆に、そのような心の態度が形成された時、そこに、まことの教会の希望が生み出されるのです。この世界の終わり・終末時の救いの完成に向かって教会が用いられるのだということ‥、私たち一人一人が、そのような主イエスの業に仕えるべく、毎週、教会に呼ばれているのだということを覚えておきたいと思います。もしかしたら教会は、私たち一人一人の願望が、一度は徹底的に打ち砕かれる場所であるのかもしれません。しかしそこに、主イエスに服従して生きる新たな人生と、決して消滅することのない主にある希望が、永遠に与えられるのです。この約束を信じて、毎週の主日ごとに、打ち砕かれつつ、歩んでまいりたいと思います。
by mizo_church
| 2010-09-11 11:11
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