日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「御言葉による救い」牧師 竹島 敏イザヤ書55:1-11 ルカ福音書4:14-30 『この聖書の言葉は今日、あなたがたが耳にした時、実現した』(ルカ4:21) (神の絶対的な意志)今朝与えられたルカによる福音書の16節には、イエスが故郷のナザレで聖書を朗読された、と記されています。「いつものとおり安息日に会堂に入り」とありますから、このようなことはしばしばあったのでありましょう。そして21節においてイエスは「この聖書の言葉は今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と言われました。これはいったい、どういう意味なのでしょうか。なぜ、そんな言い方を主はなさったのでしょうか。それは、厳しい現実のなかでたえず失望から絶望へと陥りがちな人々の心を、何とか明るい方向へ向けさせるためだったのではないでしょうか。「この聖書の救いの言葉は必ずそのようになる神の絶対の意志だ、と。だから、まだ目に見えるような形では成就していなくてもこの言葉を耳にしたあなたたち一人一人の心の中では既に実現しているのだ。そのことを信じなさい。そして、心の中に既に実現しているその救いの出来事に向かって日々前進していきなさい」そのようなことを主イエスはおっしゃりたかったのではないでしょうか。神の絶対的な意志である御言葉が語られ、聞かれたならば、それはもう実現したも同じこと‥、あとは必ず成就するその御言葉に向かって前進していくのみだ‥、と、そのようにおっしゃりたかったのではないでしょうか。そして主はそのような生き方の手本を自らお見せになるように、ご自身が読み上げた御言葉に向かって、ひたすら前進していかれたのでありました。(言葉を担う時)さて私たちが、聖書を読み始めた時、そこにはいろんな動機や理由が…あったことと思います。しかし、どんな理由、どんな動機で読み始めたにせよ、私たちが聖書の言葉と向き合い始めたその時から、聖書の言葉は私たち一人一人の心の扉をたたいていたのです。もし最初はそのことに気づかなくても、この世にあって様々な困難、苦難に出会った時に、私たちはそのことに気づかされるのです。そして改めて真剣に聖書の言葉と向き合い、新しい生き方、考え方、感じ方へと促されていくのです。それは、聖書の言葉と真剣に向き合い、その言葉を担って生きる、ということです。そのような生き方は時として、この世の価値観・この世の言葉との対立を生み出すこともあるかもしれません。しかしその時私たちはきっと、聖書の言葉を担って生きていると思っていた私たち自身が実は、その、聖書の言葉に担われて歩んでいるのを発見するのでありましょう。(担われて歩む)聖書の言葉・イエスの言葉を担うということは、同時に、その言葉に担われる、ということでもあります。言葉を担うことによって、その言葉に自分が担われるのです。支えられるのです。聖書の御言葉によって救われて、導かれていくのです。「言葉を担う」とは、そういうことです。だからそれは重荷ではなく、恵みなのです。アドベントのこの時、私たちは、どんな、主イエスの言葉に出会うのでしょうか。私たちはこの暗闇のような世の状況に再び来てくださる主を待ち望みつつ、主イエスの言葉・聖書の言葉を担う者として再び歩み始める決心を新たにしたいと思います。そのような御言葉による救いにあずかれることを心から感謝して、クリスマスを待ち望みたいと思います。
by mizo_church
| 2010-12-05 22:02
| 礼拝メッセージ集
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