日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
画像一覧
|
「拝むべきもの」牧師 竹島 敏民数記9:15-23 ルカ4:1-13 『悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた』(ルカ4:13) (悪魔の誘惑)今朝のルカによる福音書の6節において、悪魔はこのような事を言っています。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」。確かに、実際にこのような言葉を私たちが聞くことはないのかもしれません。しかし、私達の身近なところを見渡してみる時、ひとつの企業において、またその中のひとつの部署において、全ての権力と繁栄を牛耳っているような人はいないでしょうか。そして、もしわたしを拝むなら、その権力と繁栄を分け与えよう、と、ささやく人はいないでしょうか。また、学校において、その場の空気を全て支配してしまうような生徒はいないでしょうか。自分を拝むならいじめることはしない、と、自分を拝んで、一緒にあの子をいじめぬくなら、おまえをもういじめることはしない、と、そうもちかける生徒はいないでしょうか。たとえば一企業において、また、学校において、このようなことがしばしば起こっているのだとしたら、それは今朝のルカによる福音書において悪魔がイエスにささやいた言葉に、質的には同じなのではないでしょうか。この時悪魔がささやいた言葉に比べればはるかに小さなものなのかもしれませんが、本質的には全く変わりがないと言わざるをえないのではないでしょうか。(拝むべきものを一心に見つめて)このように私達にも様々な誘惑があり、それは生涯、続くのだろうと思います。しかし私達は今朝、イエス御自身も生涯、悪魔の誘惑を受け続けられたのだということを覚えておきたいと思います。13節には、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とありますが、これは時が来たら、またイエスに近づいて誘惑した、ということです。悪魔の最後の誘惑はイエスが十字架への道を行かれる直前になされました。しかしイエスはゲッセマネにて苦しみぬき、祈りぬいて悪魔の最後の誘惑をも退け十字架への道を行かれたのです。確かに私たちは時に、この世の様々な圧力や誘惑によって拝むべきでないものを拝まされそうになることがあるのだろうと思います。しかしそのような時こそ、数々の聖書の言葉を想い起こし、悪魔の最後の誘惑をも退け十字架への道を行かれた主イエスの姿を想い起こし、そのような状況から脱する道を求めたいと思います。そして時に誘惑に負けてしまうことがあっても、その都度悔い改め、主イエスの助けを得て立ち上がりやり直していきたいと思います。拝むべきものを一心に見つめていればそのような歩みが必ず可能になってくると聖書は私たちに告げています。(悪魔の企てに抗して)今日この世界には、自分が持っている小さな世界の権力と繁栄をたてにして相手を攻め自分を拝ませようとする企て‥、このような悪魔的な企てがいたるところに存在し、進行しています。しかし、そのような闇が深まるこの世界に、私たちは主イエスの御導きによって、自らを誇らず、あらゆるものをわかちあって平和に生きる道を行くように、と促されているのです。「それこそが、闇に小さな光を灯していくことだ」と‥、「それぞれが遣わされているところでそのような小さな光を灯していけばきっと、この世界は変わっていくはずだ」と‥、「だから恐れずに、誘惑に負けず、主イエスと共に、この新たな一週の旅路へと旅立っていきなさい」と促されているような気がいたします。
by mizo_church
| 2011-02-12 10:35
| 礼拝メッセージ集
|
ファン申請 |
||