日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「悔い改めの恵み」牧師 竹島 敏サムエル下7:4-16 使徒2:37-47 『彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった』(使徒2:42) (説教に心揺さぶられて)人々は、ペトロの説教を聞く以前から、しばしば、自分たちのあり方や生き方について疑問を感じたり、問い直そうとしたりしたことがあったのではないでしょうか。そのようなところに、いわゆる、常識を逆転させるようなペトロの説教の最後の言葉が与えられた‥、すなわち、「十字架につけられて殺されたナザレの人イエスが、神によって復活させられ、さらに全ての人の主、メシアとされた」という、当時の、世の常識ではありえないことが起こったという言葉を聞かされたのです。その信仰告白とも言える言葉の力強さに、それまで様々な疑問を感じながらも世の常識に従って‥、流されて、生きてきた人々の心は、大きく揺さぶられることになったのでしょう。(悔い改め)すなわち今朝の聖書の箇所は、そのような当時の出来事を伝えることを通して現代の私達一人一人にも悔い改めることをすすめているのです。それは自分がしてきたことをくよくよ後悔する‥、というようなことではなく「こんなことをしていったい何になる‥」と思って何もしなかった不信仰から、「イエスの神がきっとこの小さな働きをも用いて、何十倍、何百倍にもしてくださるに違いない」という信仰へ立ち戻る‥、ということなのです。すなわち、日々の様々な働きにおいて、またいろんな人との関係において「こんなことをしていったい何になる」「やってもむだだ」「何も変わるはずがない」、そう思い込んであきらめていたことにもう一度取り組んでみる‥、手をつけ始めるということ‥、それが悔い改めるという行為の、とても大切な側面であると思うのです。確かにそのように再び始めても「なかなかうまくいかない‥、やはり何も変わらないとしか思えない」というようなことが当面続いていく場合も多々あるでしょう。しかしそのような状況のどこかに隠されている小さな希望を私たちは見出し、積み重ねていくのです。「私の手と共に主イエスの御手が働いて、一緒に主の業をすすめているのだ」という自覚をもってこつこつと続けていくのです。それが、まことに主の業である限りたとえ破れても‥、また意味のない徒労に見えるようなことがあっても、それは神の目から見れば、たんなる破れではなくまた意味のない徒労ではないのです。たとえ見た目にはどんなに悲惨な状況であったとしてもそこには、光り輝く希望の断片を形成するという神の業がある‥、だから私たちは光り輝く希望の断片を形成するという小さな種まきのような行いをこつこつと続けていくのです。それぞれに与えられた場で、私達がまく小さな種を何十倍、何百倍にも大きく育ててくださる神の力と導きを信じて‥、そこに望みをおいて‥、この邪悪な時代の風になおあらがいながら私たちは歩んでいくのです。(悔い改めの恵みを信じて)だから私達にとって悔い改めは恵みなのです。今朝私たちは自らの胸の内をもう一度振り返り、本当に今のままの生き方でいいのかどうか、簡単にあきらめてしまっていることがないのかどうか‥、見つめてみたいと思います。うまくいかなくても、失敗しても、やったことは確実に主が見ていてくださり私達の想いをはるかにこえて用いてくださるに違いありません。この悔い改めの恵みを信じてもう一度、それぞれの場で自分にできる小さな業の積み重ねをこつこつと始めていきたいと思います。
by mizo_church
| 2011-07-21 23:27
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