日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「担うべきもの」牧師 竹島 敏サムエル24:16-23 ガラテヤ6:1-10 『互いに重荷を担いなさい』(ガラテヤ6:2) (自らの弱さを知る)今朝の聖書の箇所では「互いに重荷を担って」歩んでいくことの大切さがのべられています。そのためにはコリントの信徒への手紙一の9章22節にあるように「弱い人に対しては弱い人のようになる」ということが必要となってきます。これは、弱い人を装う、というようなことではありません。ふりをする、ということではありません。まず、自分の弱さを直視し、向き合い、受け入れる、ということです。自分の弱さをある意味、いやというほど思い知って、その故に隣人の弱さに心から共感できるようになるのだと思います。そうでなければ、隣人の重荷を担うことなどできない、ということでしょう。だから、まず自分の弱さ、重荷をしっかりと見つめよ、そして担え、と言われているのではないでしょうか。(トンネルをくぐりぬける決意)また私たちは、一気にではなく、自分の弱さや重荷を直視しつつ、その中で与えられる小さな救いや小さな喜びを発見していくという体験を積み重ねていくことで徐々に、暗闇から光り輝く場へと導かれていくのだと思います。確かに、自分の弱さや重荷を直視することは気の滅入ることでもありますが、勇気を出してあえて、そのトンネルをくぐる一歩を踏み出すなら、暗闇の中に輝き出す小さな光を発見することができるのではないでしょうか。そしてその小さな光こそ、十字架の主イエスから与えられた救いのしるし‥、あらたな希望へと導いてくださる主の御手であると確認することができるのではないでしょうか。そのようにして積極的に自らの重荷を負い、見つめ続ける時にこそ、隣人の重荷への共感が生まれ、なすべき愛のふるまいが明確になってくるのではないでしょうか。何をすべきか、また何をすべきでないかが明確になってくるのではないでしょうか。愛することにおいて、私たちはいろいろな失敗をするのでしょうけれども、「飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」と9節に記されています。(弱いまま主イエスの霊に包まれて歩む)生き、そして、死んでいく、ということはなまやさしいことではありません。その中で私達には様々な重荷・課題が与えられ、つぶされそうになることもしばしばです。けれども私達には、十字架の主イエスが与えられているのですから、恥も外聞も捨てて主イエスの愛をもっと切実に求めていいのだ、と言われているような気がします。つぶされそうになっている弱い姿も、教会では、そのままにさらけ出していいのだ、と言われているような気がします。私もまた、今の自分に与えられている重荷、十字架を再びしっかりと見つめてみたいと思います。それは自分の限界をしっかりと見つめ、受け入れる、ということでもありましょう。その時、主イエスの霊がより豊かに臨んでくださり、包み、導いてくださるような気がします。このように互いに重荷を担うとは、互いの十字架‥、すなわち互いの弱さや、限界を見つめ合い、共感しあいながら、祈り合って歩んでいくことなのではないでしょうか。そのような歩みを進めていくために、まず再び、自分に与えられた重荷、十字架をしっかりと見つめたいと思います。そのように自分の限界をしっかりと見つめ、受け入れつつ歩んでいきたいと思うのです。
by mizo_church
| 2011-12-01 20:31
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