日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「神の国の夢」ゼカリヤ書9:9~10/マルコ福音書11:1~11『二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった』(マルコ福音書11:7) <子ろばと共に>今朝与えられたマルコ福音書の箇所には、イエスが小さな子ろばに乗ってエルサレムへの道を行進されたと記されている。イエスは、自分は地上の王、メシアではなく、愛と平和の主なのであるということをはっきりと示すために、また、力に対して力で対抗するのではなく、無抵抗の抵抗を示すために・・、自分はそのような者なのだということを表現するために、自らの同伴者としてこの子ろばを招かれたのです。受難と十字架への道ゆきを主イエスと共に豊かに指し示す同伴者として、この子ろばを招かれたのです。 <誤解の中を>このように主イエスは、ホサナホサナという誤解に満ちた人々の叫びの中を、御自身は受難と十字架への道ゆきと認識しながら、子ろばと共に歩んで行かれる中でしかし復活への希望を抱き続けていたのではないでしょうか。そしてきっと今自分を誤解している人達もまた、十字架の出来事の後に真理を悟るに違いない、とそこに希望を置き、夢を抱き、しかしイエス御自身は決してこの地上ではその夢を目にすることはない、ということを承知の上でその夢にかける歩みをたんたんと進んでいかれたのではないでしょうか。そして、この子ろばも、擬人的に表現するならば、思いがけない主の招きにとまどいながら、また、初めて人を乗せるという体験だったために、時にはふらついたり、横にそれたりしながら、しかし、しっかりと主イエスの重みと暖かみを背中に感じて、イエスと同じ夢を分かち与えられていたのではないでしょうか。今日の聖書箇所に登場したこの子ろば、をこのように擬人的に表現し、黙想する時、誰もが、この子ろばを、クリスチャンとして自らの姿と重ね合わせて見るのではないでしょうか。私もまた、今日の箇所を繰り返し繰り返し読むうちに、知らず知らずのうちに、この子ろばの姿を、自らの姿と重ね合わせるようにして見ている自分に気づかされていきました。 <神の国の夢>私たちの心は今、復活への希望に燃やされているでしょうか。それとも、日常の歩みの中で、様々な困難・苦難、また、先の見通しが立たない不安を抱え、打ちひしがれているのでしょうか。しかし、もし、私たちの心が打ちひしがれていたとしても、いや、打ちひしがれているならばこそ、今朝、私たちの心の真ん中に、弱く小さな子ろばを同伴者として十字架への行進を進んで行かれた主イエスのお姿が、はっきりと写し出されているのではないでしょうか。この種の招きに答えて、私もまた、弱く小さな子ろば、としての自分自身を差し出す時、主は、御自身の夢を分かち与えてくださり、私が進んでいくべき具体的な方向性を指し示してくださる。力と力のぶつかりあい、多くの抑制と差別に満ちたこの悲惨な世にあって、なお、御国の実現は遠い。しかし、主が、たとえ、御自身はその夢の実現をこの目でみることはできなくても、あとに続く者達が次々と起こされていくことに希望をおいて短い生涯をそこにかけたように、私たちもまた、この御国の夢にかけていく。私たちもまた、その夢の実現をこの目で見ることはないのかもしれないとしても・・主イエスと共に、どこまでも行進し続けていくのです。それが、弱く小さな子ろばとしての私たち一人一人に与えられている大いなる夢、どんなに悲惨な状況にあったとしても決して揺らぐことのない、希望と慰めに満ちた神の国の夢、なのではないでしょうか。
by mizo_church
| 2006-04-09 10:00
| 礼拝メッセージ集
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