日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「見えない明日を信じる」哀歌3:18~24/ヨハネ福音書9:35~41わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。(ヨハネ福音書9:39) <「見る」ことを独占する人たち>ここでイエスは、自分たち自身の本当の姿を見つめようとせず、謙遜を装いつつさらに貪欲に求めてくるファリサイ派の人たちを叱責しています。39節において「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」といわれています。そのような裁きをわたしは与える、とイエスは言われました。これはいったいどういう意味だったのでしょうか。ここで言われている「見えない人たち」というのは実は、見えなくされている人たち、ということなのではないでしょうか。見える人たち、つまる見ることを独占している人たちによって、三枝無くされている人たちがいる、ということがここでいわれているのです。見ることを独占している人たち、とは、数多くの情報を知りうる立場にあり、その情報を独り占めしている人たち、また、自分の見ていることを絶対化し、他を支配する力を持っている人たち、ということができるでしょう。このような人たちの差別的な振る舞いによって、社会の中で自分がどのように豊かな人生を切り開いていけるのか、という見通しを見ることの許されない人たちが生み出されているではないか、という批判をイエスはここでされたのです。「なぜ、互いに謙遜になり、全てをわかちあわないのか。あなたたちはいつも『見える』と言い張り合っている。しかし、あなたたちは本当に全てが見えているのか。あなた達に必要なのは、自分にもまた、見えない、見えていない部分がある……、という認識をきちんと持つことなのではないか。そのように、自分も又真理の断片を持っている者にすぎない、という謙遜な自覚が必要なのではないのか」とイエスはここで言おうとされたのではないでしょうか。 <「見える」と言い張る罪>自分にとっては当たり前とおもっていることを、他の誰かに押しつけていることがもしあるとすれば、結局それは、こう「見える」という自らの主張を律法的に言い張っていることになるのです。そして、そのようなぶつかりあいが紛争を生み、分裂を生みイエスを十字架へと追いやっていくエネルギーともなっていったことを想う時、わたしたちも今一度、自分にとっては当たり前とお思っていること、こうであるに決まっている、と思っていることを受難説のこのとき、見つめ直してみるべきなのかもしれません。 <見えない明日を信じて>確かに、見えていた事柄が見えなくなってしまった時、私たちは不安に陥り、自信を失うのかもしれません。しかし、もしそこに、見えない者同士が寄り添い合い、祈り合い、知恵を絞り合う、という出来事がおこされるなら、見えない明日を信じて歩んでいくことは、決してこわいことではなくなっていくはずであります。そのようにして、お互いに見えていない部分をそれぞれに持っている者たちであることを告白しあい、見えている部分と見えていない部分をわかちあいながら明日への歩みをなしていけ……、と首位エスはおっしゃりたかったのではないでしょうか。見えると言い張るところには分裂しか生じない。見えないと素直に告白する者たちは互いに支え合う群になることができる。そしてそのようにしてこそ、見えない明日が、少しずつ信じうるものとなっていくのだということを聖書は私たちに証ししているのであります。今日から2006年度の主日の歩みが始まりました。希望と期待とを持って、私たち一人一人の十字架をともに背負うべく、見えない明日に両手を広げて待っておられる主の御許に、ご一緒に祈りを捧げつつ、歩んで参りたいと思います。
by mizo_church
| 2006-04-02 22:32
| 礼拝メッセージ集
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