日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
画像一覧
|
詩編46:2〜4/ローマ書8章20〜25節
「被造物は虚無に服しています」。被造物とは、自然のことです。自然の救いを扱う珍しい聖書箇所です。先月、私は、福島在住の家族に向けて、保養の付き添いのためフェリーに同乗しました。台風の余波で船が揺れ、ある母親の手に汗が滲みました。東日本大震災以来、地面が揺れると、パニック症状が出てくるそうです。地震と放射能の不安は、知らずと私達の社会の中に潜んでいることを感じた夏の出来事でした。 私の子育て時代は、オホーツク海の近く、自分と我が子が大地につながっているという体の感覚を覚えていた頃でした。そこに、チェルノブイ原発事故が起き、放射能汚染されたベラルーシの村の子ども達が、夏休みを我が家で過ごすようになったのです。現地では、甲状腺ガンが多発し、鼻血、頭痛や腹痛、体力や視力の低下等々が子ども達におきていました。うちで保養した子ども達は、戸外でよく遊びましたが、その陰に「私達はこれからどうなるの?」と心に不安を抱いていたことを思い出します。 「被造物が虚無に服し」ているのは、大人の罪の結果です。神を神として崇めず感謝もせず、隣人を貪り、自然を破壊してきたのです。しかし、自然はどうでしょう。静かに自らの使命を果たし、命を次世代に繋ぎます。大地と水だけの問題ではない。人間は自分が何者なのかすら忘れてしまっています。現在、日本での小児甲状腺ガンは172人です。大地と海洋を回復不可能にまでしている放射能汚染。現実にとらわれると、希望が見えません。しかし、聖書は語ります。「被造物が今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます」。贖うとは、債務奴隷を買い戻す、の意味です。罪なきイエスの十字架の死と引き換えに私達の罪が帳消しにされたことを示します。人間が罪から解放される時、自然も虚無から救われ、大地につながる体も贖われるのです。 震災後、私は、ベラルーシの汚染地へ6度目の訪問をしました。子ども達を保養に送ってくれた教師のウラジミール先生に再会し、昔、うちの前の家で保養していたターニャとターニャの赤ちゃんにも会いました。あの頃ターニャは9才でした。汚染地域は、不安とストレスが非常に強い場所です。しかし、先生は、「大人に見守られている子どもはストレスに強く、病気の回復も早い」と経験的に語ってくれました。子どもは、自分の心と体を心配してくれる人がいて、現実と格闘している大人を見て、あきらめから希望へと、何らかの光を感じ取っています。 聖書に照らされて、希望の意味が変わります。もう傷をかかえたままかもしれない。しかし、「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望」むことが示されてくるのです。私達は、キリストにつらなる「神の子」とされました。神の相続を受け継ぐ者として、辛抱強く神のもとに留まり、今もこうやって耐えています。私達は体の重みを引きずっています。痛み、苦しみ、飢え、病むこと、老いること、体の中に封印してきた不安や悲しみ、罪悪感。究極的な死と、愛する者との訣別は、私たちの最大の苦悩です。しかし、主イエスこそ、堪え難い体の痛みを十字架で経験され、死を滅ぼし復活されました。復活の救いは体にまで至るのです。たとえ「山々が揺らいでも」、神こそ私たちの砦、大地は神様のものです。罪の世を底辺から支え、大地にある命を贖い続けるイエスがおられる限り、希望に生きましょう。
by mizo_church
| 2016-10-01 18:26
|
ファン申請 |
||