日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
画像一覧
|
「神によって生きる」出エジプト3・11~15/ルカによる福音書20・27~40『すべての人は、神によって生きているからである』(ルカ20・38) <神との隔て>)今朝のルカによる福音書には、死後の世界についてのサドカイ派の人たちとイエスとの問答がおさめられています。ここを読んで想わされることは死後の世界について聖書は具体的なことをあまり語っていないということです。そして私は今、若くしてこの世を去った、一人の友を想い起こしています。伝道者になる志を与えられて同じ神学校で1年間一緒に学び、過ごしました。しかし次の年の春、過労と風邪で1週間神学校を休み髄膜炎を併発してあっという間に…、まだ20代後半になったばかりの年齢で、いってしまいました。なぜ彼が死ななければならなかったのか、今でもわかりません。彼が召されて10年以上たち、私が神学校を卒業して8年になりました。彼の死をめぐっていろんなことを考え祈ってきましたが、なぜ彼が死ななければならなかったのか今でもわかりません。本当に神は私たちにとって謎であり、神と私たちとの間には依然として大きな溝、大きな隔てがあります。この地上においてはわからないことばかりです。人は死んだらどこにいくのか、なぜ、この人が今、死ななければならないのかなど今でもわからないことばかりが日々、起こっていると言わざるをえません。 <よみがえりの業>しかし、時にそのような想いに押しつぶされながらも今朝、私は38節の、この一言にはっとさせられ強烈な光を感じるのです。「すべての人は、神によって生きているからである」。「神によって生きている」これは、この地上の生と死を超えて生きている時も死んでからも、私たちは神によって生きている…、神によって存在している、ということなのではないでしょうか。そして神が、すでに死んだ者の傍らに立ちその者を抱きしめ、つかわしてくださる時、私たちの心の奥深いところから死別したその人がよみがえってくるのではないでしょうか。そのようにして神はこの地上を生きている者と、すでに死んだ者とを結びあわせてくださるのだと思うのです。神学校で1年間、一緒に学んだ友がいってしまった時、私は彼のことをたびたび思い出しました。深い悲しみと共に、また、どこにぶつけていいのかわからない怒りと共に…。しかし時がたつにつれてそのような想いは少しずつ落ち着いていった…、正直に言えば、うすれていったのだと思います。なのに今でも時々、特に、行き詰まりを覚えていたり悩みを抱えていたりする時に、強烈に彼は私の心の中に生き生きと現れてくるのです。そしてあの、愛嬌いっぱいの丸顔をくしゃくしゃにした笑顔で落ち込んでいる私を励ましてくれるのです。これがこの38節において「すべての人は神によって生きているからである」と言われていることの内容なのではないでしょうか。そのように神は、時に彼を私のところにつかわしてくださり彼と私とを結びあわせてくださっていると思うのです。 <すべての人が覚えられている>そしてこの38節において「すべての人は」と言われていることが重要です。洗礼を受けている、クリスチャンである…、というような条件は何一つなくただ単純に「すべての人は」と言われているのです。「すべての人がこの地上を生きている時も死んでからも神に覚えられ続けている」、だからこそこの地上においてイエスキリストの神への信仰告白に至らないままこの地上の命を終えた家族や友人、知人のためにもとりなしの祈りを献げ続けることが大切なのではないでしょうか。天と地を結んでくださる主イエスがこの地上を生きる者たちと、この地上を去った者たちすべてを見ていてくださるのだということを再び深く覚えたいと思います。
by mizo_church
| 2006-11-19 11:30
| 礼拝メッセージ集
|
ファン申請 |
||