日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
画像一覧
|
「悪魔の誘惑」申命記6章10~19節 ルカ福音書4章1~13節『悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた』(ルカ4:13) <誘惑>今朝のルカによる福音書には、イエスが悪魔から誘惑を受けた、ということが記されています。「悪魔の誘惑」が今朝のルカ福音書のテーマです。今朝のルカによる福音書の6節において悪魔はこのような事を言っています。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」。悪魔は一瞬のうちに世界の全ての国々をイエスに見せてそう言った、というのです。「世界の全ての国々の権力と繁栄を任されている」、「それをこれと思う人に与えることができる」これは本当に誘惑に満ちた言葉だと思います。このような言葉をかけられたら誰でも、ぐらっとくるのではないでしょうか。確かに、世界の一切の権力と繁栄を独占している人はいません。ならばこんな話はナンセンスなつくりごとでしょうか。しかし一国の権力と繁栄を独占しているような為政者は実際存在していますしまた、私達のもっと身近なところを見渡してみるならば、ひとつの企業において、またその中のひとつの部署において、全ての権力と繁栄を牛耳っているような人はいないでしょうか。そして、もしわたしを拝むなら、その権力と繁栄を分け与えよう、と、ささやく人はいないでしょうか。また学校において、その場の空気を全て支配してしまうような人はいないでしょうか。自分を拝むならいじめることはしない、と、自分を拝んで、一緒にあの子をいじめぬくなら、おまえをもういじめることはしない、と、そうもちかける人はいないでしょうか。 <悪魔の企て>このようにたとえば一企業において、また学校においてこのようなことがしばしば起こっているのだとしたら、それは今朝のルカによる福音書において、悪魔がイエスにささやいた言葉に、質的には同じなのではないでしょうか。この時悪魔がささやいた言葉に比べればはるかに小さなものなのかもしれませんが本質的には全く変わりがないと言わざるをえないのではないでしょうか。たとえ小さくとも自分が持っている世界の権力と繁栄をたてにして相手を攻め、自分に仕えさせようとする、自分を拝ませようとする企て、これを悪魔の企てと呼ぶならば、私たちが生かされているありとあらゆる場において、このような悪魔の企てが存在し進行していると言わなければならないのでしょう。 <誘惑にうち勝つ歩み>私達にも様々な誘惑があるのでしょう。様々な誘惑に生涯、合い続けるのでありましょう。しかし私達は今朝、イエス御自身も生涯、悪魔の誘惑を受け続けられたのだということを覚えておきたいと思います。13節には、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とありますが、これは時が来たら、またイエスに近づいて誘惑した、ということです。悪魔の最後の誘惑は、イエスが十字架への道を行かれる直前になされました。しかしイエスはゲッセマネにて、苦しみぬき祈りぬいて、悪魔の最後の誘惑をも退け、十字架への道を行かれたのです。先週の水曜日21日から、受難節に入りました。受難節のこの時、荒れ野での誘惑を退け、さらに地上での生涯の最後まで、誘惑を退け続けたイエスの姿を見つめるならば、私達にもきっと聖霊が豊かに与えられるにちがいありません。祈りつつ、このイエスを見つめてさまざまな誘惑にうち勝つ歩みをなしたいと思います。確かに誘惑を退けることによって受難を招くこともあるのでしょう。しかしその受難の歩みの向こうに、今はまだほのかにではあっても、すでに見えている復活の光を見つめながら歩んでいけたらと思うのです。
by mizo_church
| 2007-02-25 12:58
| 礼拝メッセージ集
|
ファン申請 |
||