日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「神の御心」出エジプト16章4~8節 ヨハネ福音書6章34~40節『わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである』(ヨハネ6・39) <荒削りの木の十字架>私にはおそらく、生涯忘れることがないであろう一つの十字架があります。それは、私の前任地の勝沼教会の屋根の上に立っている十字架です。その十字架は勝沼教会の信徒の方が栗の木でつくりました。荒削りの木の十字架です。そもそも私が勝沼教会に赴任した時、教会の屋根の上には十字架がありませんでした。もともとは鉄製の大きな十字架が屋根の上には据えられていたそうですが、年数がたつと共に傷んできたそうです。それで、ある信徒の方がつくることになりました。その方は、私が初めて主任者として赴任した勝沼教会で、就任当初から様々な配慮をしてくださった方です。栗の木で、荒削りの木の十字架をつくることになりその方は何日も教会に通って作業をされました。何度も何度もていねいに塗装をしては、かわかして‥、何日もかかってその方の祈りのこもった十字架が完成しました。そして屋根の上の取り付けだけは専門家に依頼し取り付けられました。 <突然の別れ>まもなく暑い夏がやってきました。しかしその夏に突然その方は、私たちの目の前から取り去られてしまいました。「なぜ」、という想いで胸がいっぱいになりました。なぜ礼拝出席平均12〜13人の教会から、あの方が突然取り去られなければならなかったのか‥。今もその答えはわかりません。丹誠込めてつくった十字架が完成してまもなくなぜ、何の前触れもなく逝ってしまったのか‥、その方が突然私たちの目の前から取り去られたことは、本当に大きな痛み以外の何ものでもありませんでした。しかしやがて、お祈りをお献げし続けていくうちに、「なぜ」と激しく神に問うていた気持ちがやがて静まっていくのを感じました。ヨハネによる福音書は、主イエスは神の御心を行うためにきた、と告げています。その神の御心とは、イエスに与えられた人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである、と。この御言葉に慰めを感じるようになったのです。あの方は確かに突然、私たちの目の前から取り去られた‥、しかし、決してイエスから、イエスの目の前から失われたわけではないのだと、思えるようになったのです。確かに私たちのなかから失われたその人を、あなたたちから失われても私の目の前から失われたわけでは決してないと言ってくださる方がおられるということ、これは大きな慰めでした。 <その人は失われてはいない>私たちは、思いがけない形で私たちの大切な人を失うことがあります。それは耐え難いほどの痛み悲しみをもたらします。しかし命のパンである主イエスを信じて祈るならば、主は、そのような私たちに言ってくださるのです。「その人は失われてはいない」と。「その人は私の目の前からは失われてはいない」と。「そして私はその人を終わりの日に復活させるのだ」と。「それが神の御心なのだ」と言ってくださるのです。この言葉を支えにみずからのあり方を省みつつまた、みずからを慰めて歩んでいけるのではないでしょうか。だから私たちにとって大切な事はその時まで‥、終わりの日まで、私たちの失われた大切な人を主イエスが見守り続けてくださるようにとりなしの祈りを献げ続けることなのです。神の御心とはイエスに与えてくださった人を一人も失わないようにすること。そして終わりの日に復活させることだと。私は今も、その恵みの約束に支えられ、とりなしの祈りを献げ続けて歩んでまいりたいと思っています。
by mizo_church
| 2007-04-29 13:30
| 礼拝メッセージ集
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