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「妨げるな!」 神学生 木村 智次創世記48章12~16節 マルコ福音書10章13節~16節<ガリラヤの子ども達>イエスの時代、イエスが宣教活動の主な舞台とされていたガリラヤを直接支配していたヘロデ王家と背後にいるローマ帝国は、ガリラヤの人々を徹底的に搾取しました。その為、多くの家庭で経済が破綻状態にあり、ガリラヤに住んでいた人々の9割以上が貧困層であったと言われています。そのため、イエスの所に連れて来られた子ども達は、痩せ衰え、明日にでもその命は失われてしまうのではないだろうか?そのような状況にあったと考えられます。この子ども達をイエスの所に連れてきた人々は、あのイエス様なら子どもの命を助けてくれるのではないだろうか、イエス様に触れて頂ければ子どもの命は助かるのではないだろうか、そのような思いで子ども達をイエスのもとに連れて来たと思います。今朝の旧約聖書では、ヤコブがヨセフの2人の子どもを祝福する場面が描かれていますが、手を置いて触れるという行為は、祝福する事にとどまらず、治癒の力も伝わると信じられていました。イエスのもとに子ども達を連れてきた人々は、イエスに触れて頂けたら治癒の力が子どもに伝わり、子どもの命は助かるのでは、と信じていたことでしょう。 <妨げるな!>しかし、イエスの弟子達は人々を叱り付けました。ところが14節にある通り、イエスは子ども達を妨げた弟子達を見て憤ったと書かれています。憤ったという動詞、原典ではエーガナクテーセンという動詞が用いられています。この動詞は単なる憤りではなく、激しい憤り、強い怒りを表す動詞であり、弟子達、祭司長、律法学者達を主語として用いられる事はあっても、イエスを主語として用いられているのはマルコ福音書10章14節だけです。激しく憤るという感情は、イエスに相応しくない、似つかわしくないと思うかもしれませんが、子ども達に対するイエスの深い愛、子ども達を軽んじる者達へのイエスの厳しい態度が、ここで一層強く私達に伝わってくるのではないでしょうか。14節後半から15節にかけて、激しく憤ったイエスが弟子達に発した言葉が書かれています。新共同訳では、激しい怒りを発したと言うよりも、諭したという印象を受けます。しかしイエスは、激しく憤られたのです。滝澤武人氏は著書『マルコの世界』の中で14節のイエスの言葉を次のように訳しています。「子ども達を私のところに来させろ!決して妨げるな!神の国とは、そもそもこういう者たちのためなのだ」。 <子ども達に寄り添い共に生きる>16節でイエスは、子ども達を抱き上げ、手を置いて祝福されています。このイエスの行為に、子ども達がイエスに近づくのを妨げようとした弟子達は勿論、子ども達を連れてきた人々も驚いたと思います。人々は、ただ触れてもらえるだけでも良い、そんな思いで子ども達を連れて来たと思いますが、イエスは、ただ触れるどころか、子ども達を抱き上げ、手を置いて祝福までされました。未来に希望を持てない状況にあった子ども達、そして我が子が弱り果てていく姿を目の前にしても何も出来ず、無力感と悲しみでいっぱいであった人々に、イエスの行為は、大きな希望と慰めを与えて下さる行為であったと確信しています。私達は、「妨げるな!」というイエスの御言葉を心に受け止めつつ、また、その御言葉に促されつつ、そして子ども達を抱き上げ手を置いて祝福されたイエスの行為に促されつつ、厳しい状況の中に置かれている子ども達に寄り添い共に生きる者でありたいと願います。
by mizo_church
| 2007-06-24 11:44
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