日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
画像一覧
|
「イエスの権威」申命記8章11~20節 使徒言行録4章5~12節「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」(使徒4・11) <だれの権威によって>今朝の使徒言行録の箇所においてペトロはイエスキリストについて次のように語ります。11節、「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」。そしてペトロはかつて、生まれながら足の不自由だった男性を癒したことについて、イエスの権威によって‥、イエスキリストの名によって癒しの業を行った、ということを積極的に伝えようとします。ペトロは12節において、「ほかの誰によっても救いは得られません」、と語ります。この「救い」という言葉は「いやし」とも訳せる言葉で、そうだとすれば、「ほかの誰によってもいやしは得られません」となります。イエスの威力のみが‥、イエスの持っている価値のみが‥、いやしの業を行える、とペトロは断言するのです。 <捨てられた石の威力・価値>この使徒言行録の箇所において、捨てられた石であるイエスの威力・価値によって、生まれながら足の不自由だった人がいやされた、と言われていることには、非常に大きな意味があると思います。この生まれながら足の不自由だった人が、なぜ、歩けるようになったのか‥、それが、捨てられた石であるイエスの威力・価値によって、ということであるならば、捨てられた石であるイエスが、隅の親石にされた、という奇跡、つまり、十字架につけられて殺されたイエスが復活された、という奇跡に秘められた力によって、歩けるようになった、ということなのではないでしょうか。この癒された男性は、生まれながら足が不自由であり、そのために様々な差別も受けて、それでも何とか生き延びてきたのだと思います。本当に道のはしっこに見捨てられてしまった石ころのような存在であると、いやというほど感じながら歩んできた人生だったと思うのです。しかし、そのような自分の悔しさや苦しみを同じように味わいつつも、それを乗り越えて復活された方との出会いが、ペトロとヨハネによって与えられたのです。その出会いの力が、この男性を癒し、立って歩かせたのです。それがイエスの威力・価値なのです。今朝の説教の題は「イエスの権威」となっていますが、イエスの権威、とは、このようなイエスとの出会いによって引き起こされる喜ばしい事件の力のことなのです。 <神の国を形成する権威>このイエスの権威によって時に世の常識はひっくり返され弱い立場に立たされ続けていた人の尊厳が回復され、そこに小さな神の国とでも呼ぶべきまことの平和が形成されていきました。そのような業をペトロやヨハネはしていたのです。ペトロたちはこのような業を通しても福音を証していました。そしてこの福音はこの後、異邦人のなかにどんどんひろがっていくのです。異邦人とは広く解釈すればなんの特権もあたえられていない人達、低く見られて見下げられている人達、不当に差別されている人達のことだったと言えるでしょう。使徒たちはそのような異邦人たちの希望の光となるということがこの後の箇所において言われています。そしてかつて使徒たちがその身におびて証したその光を、私たちもこの身におびて証するよう促されているように思います。聖書に記されている主イエスの言葉とふるまいをとおして今も、主は、光を放っておられます。その権威ある光‥、すなわち、弱い立場に立たされ続けていた人の尊厳が回復され、そこに小さな神の国とでも呼ぶべきまことの平和が形成されていく権威を、私たちも、この身におびて、日々の歩みへ遣わされていきたいと願うのです。
by mizo_church
| 2007-06-17 11:57
| 礼拝メッセージ集
|
ファン申請 |
||