日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「天の住みか」 牧師 竹島 敏
ダニエル12章1—4節 コリント二5章1—10節 『わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています』(コリント二5・1) (悲惨な世界のなかで)パウロは明らかにこの箇所において、できれば、この肉体という住みかを脱ぎ捨てて、天から与えられる住みかを着たいと願っている。それほどパウロは、自分の肉体を嫌っていたのだろうか。そうではないと思う。そうではなく、あまりにも痛み苦しみの多いこの肉体から離れたい、という思いが強かったのではないだろうか。パウロが、生涯治る見込みのない病を抱えていた、というのは有名な話だが、その病のあまりの痛み苦しみの故にパウロは何度となくできればこの肉体という住みかを脱ぎ捨てて、天から与えられる住みかを着たいと願ったのではないだろうか。しかし、主から与えられたこの地上の命であるなら、その命を生き切らねばならない‥、ならばせめて、この肉体の上に、さらに天から与えられる住みかを重ね着したい、と願ったのではないだろうか。2節には「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、」とある。「わたしたちは」とあるから、パウロのみならず多くの人が様々な痛み苦しみを抱えてうめいていた、ということがわかる。パウロは自らの痛み苦しみのみにとらわれることなく、自らの痛み苦しみを通して多くの人の痛み苦しみに共感し連帯して生きた人だった。そのような人だったからこそローマの信徒への手紙8章23節において次のような告白をすることができたのだろう。ローマの信徒への手紙8章23節、「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。しかし、それにしてもまさに、このローマ書の8章23節にあるように、今、私たちが生かされているこの時代は本当に、さまざまな暴力、破壊、そして分裂に満ちた悲惨な状況になってしまった。 (さまざまなうめき苦しみのなかで)そのような状況のなかで、私たちは日々うめきつつ生きている。本当に様々な苦しみがある。体の苦しみもあれば、心の苦しみもある。理解し合えない、ゆるしあえない悩み苦しみがある。私たちもまた、この地上の幕屋にあって苦しみもだえているのだ。たとえばここ数年来、私たちの属する日本基督教団において、聖餐に関する論議がさまざまなところでなされるようになっている。しかしその論議は、違う立場の者が意見を交換し、学びあうというよりも、同じ立場の者が集まって、自分たちの考えをより強固なものにする、という傾向にあるように感じる。そのような私たち一人一人も、また、教会も、教団も、常にあやまちをおかしやすい存在であり、しばしば神の御心と人間の思いとを取り違えてしまう。しかし、それでもなお、この不完全な欠けた住みかの上に、天から与えられる住みかを着て歩む小さな一歩一歩を積み重ねていくなら、聖霊の守りと導きのうちに、必ずよい変化が訪れる、という約束を、今朝の箇所は私たちに示しているのではないだろうか。 (天から与えられる住みかを着て歩む)パウロやコリント教会の人たち一人一人に、天から与えられる住みかがあったように、私たち一人一人にもまた、天に備えられている住みかがあり、天から与えられる住みかがあるということを忘れずにいたいと思う。すぐにあきらめてしまう、絶望してしまうこの身の上に、天から与えられる住みかを着て一歩、また一歩と積み重ねていくなら、必ず、新たな変化が生み出されるのだということを心にしっかりと刻みつけ、ここから一週間のそれぞれの旅路へ旅立っていきたいと思う。
by mizo_church
| 2008-10-03 13:14
| 礼拝メッセージ集
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