日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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ヨハネによる福音書9:1〜12 飯田瑞穂 弟子達は「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と質問します。両親の罪が子にも及ぶという運命論です。見えないこと以上に辛いのは、律法学者たちが、神の名を濫用して、この人の尊厳を軽くしてしまっていることなのです。イエスさまは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、再び神の名によってこの人の尊厳を取り戻されたのです。明るい未来がぱあっと射し込んできます。
私の知りあいの牧師は、全盲の父親の目になって来たそうです。子どもの時の経験は、街を歩くと、偉いわねーと声をかけられる。「別に偉くないよ、親父と歩いているだけだよ」と思う。または、ちょっと避けられたり、露骨にイヤな顔をされたりなど。お父さんと同じ空気をあび、お父さんと同じ感覚で同じ目線で歩く。点字ブロックの上に自転車や者がおいてあると困るなあと感じ、注意したくなる。中学生のとき、父親の手を引きながら線路を渡るとき電車が出るのでちょっと急いだそうです。そのとき、父親のおでこを柱にぶつけてしまいました。ごつん、と音がした。そのときの自分の痛さ。痛いのはお父さんです。でも、とても痛かった。「ご免」と言っても、父親は一言も言わない。「きをつけろよ」ともいわない。なんでいえないのか、言わないのか。牧師になった今も、ごつんと響いた父親の痛みを、忘れられないと。「それが、人の痛みを感じる、わかるということではないかなあ」と語っておられました。 痛みは罪悪感であり、自分への戒めとなり、他者への優しさへと通じ、私達の信仰になります。
イエスさまは、人々の痛みと共に生き、世の恥ずかしめをうけ、十字架の上で人間の罪の身代わりになって死なれました。イエスさまの痛みを知る者になりたいと思います。
「神の業がこの人に現れるためである」イエスさまの未来志向の言葉に目を開かされた私達。隣人を罪の中に閉じ込めていなかったかと自省します。自分にも痛みがあるのに強さを装っていなかったかと振り返ります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」との御言葉の中から、外で眺めるのでなく輪の中に入れと、イエスさまは、私達ひとり一人の痛みを必要とされているように思えるのです。社会が柔らかさをもち、優しさを増しますように。 #
by mizo_church
| 2020-04-05 15:36
| 礼拝メッセージ集
マタイ14:22〜36
舟はときとして教会を表します。初代教会は、自分達を舟にたとえ、信仰を守り抜いていく試練を嵐として語っています。 私は昨日、按手礼を受けて正教師になりました。日本基督教団の正教師になるということは、教団が戦時中に戦争に協力していった負の遺産を担うことであり、和解と共生の道を探り、弱くされた隣人と共に生きていくことだと自覚しています。1939年に宗教団体法が発布され、教派の違う教会がまとめられました。国は、天皇を神と崇める国家神道の下に全ての宗教を隷属させ、戦争協力への思想を統制しました。教団代表者は自ら天皇や神社を参拝し、軍用機を国に奉納しました。嵐に翻弄された教団の弱さと罪を心に刻んでいきたいと思います。 群衆を解散させたあと、イエスさまは、弟子達を強いて舟に乗せ、向こう岸へ先にいかせました。弟子達は、イエスと離れて行きたくなかったことがわかります。寂しさを感じたかもしれません。もう一つ、弟子達が行きたがらなかった理由は、湖は逆風に悩まされていたからです。ことさら、イエスさまのいない舟の中は良い予感がしなかったのでしょう。時として、イエスさまは、ご自分の時間を持つために、ひとり山に登られました。十字架への使命のことを祈られたのでしょうか。当然、弟子達のことも祈られたでしょう。彼らは、イエスさまが目の前にいないだけで不安になるヨチヨチ歩きの子どものようです。 キリスト教の祈りには他者のための執りなしの祈りがあります。私達は、たいてい愛する者の幸せを願うとき、健康であるように、能力が大きくなるようにと、外側を大きくする祈りをします。しかし、イエスさまの祈りは内側を強める祈りです。「信仰によってあなたがたの心のうちにキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」エフェソの信徒への手紙3:17。 イエスさまが、弟子達を、あえて先に行かせたのは、彼らの内側にイエスを住まわせるための備えとして、弟子達に別れの練習をさせたのだと思います。イエスの愛を信じられる者となるように、イエスさまは見えるものから初めて見えないものを信じることへと私達を導かれます。私達の内側を強め、イエスの「愛」を信じて生きる者となるように、私達を成長させようとしています。 イエスさまが湖上を歩いていかれると、弟子達は「幽霊」だと怖がりました。その時、イエスさまは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われたと聖書に記されています。 疑う日もあります。嵐に翻弄された小舟の中で戸惑うこともあります。しかし、そういう日のために、溺れそうになったペトロに手を伸ばして起こしてくださるイエスの物語が備えとして私達に与えられました。私達の内側を強める祈りを増していきましょう。キリストの愛を深めていきましょう。イエスの臨在を信じましょう。イエスの愛に根ざし、嵐が襲う時も、隣人と共に生きる者となりましょう。 #
by mizo_church
| 2017-03-03 22:50
| 礼拝メッセージ集
エゼキエル書2:1〜3:4 マタイによる福音書4・18~25
私の母教会の牧師は、「間に合う信徒になりなさい」。とよく語っていました。イエスの働きに遅れないように「はい」と、ご用に当たる者になるということです。素直な はい で十分なのです。イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとアンデレに「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招きました。イエス様は、最初の弟子達の「はい」を必要とされました。彼らの「はい」が、イエスの宣教の始動に欠かせなかったのです。 人間をとる漁師の仕事は、マタイ13章の天のたとえの箇所に書いてあります。「網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」。網の中には、良いものも悪いものも、ごちゃ混ぜに入って来る、ということです。何故、入り口で良いものだけを選別しないのでしょう。それは、神の招きが全ての人に開かれているからです。そのことは、私達にはしばしば厄介なところです。 良い魚ばかりでない。ガラクタが混じった重い網を引き上げる空しい日もあります。それを良しとするのは、最後の浜辺で選別する仕事が、神の領域であることを信じるからです。神のご計画の中には、私達には知り得ない大きな可能性が秘められているということが、イエスの招きの本質です。 そのことは、弟子達の仕事が、イエスさまの死後に初めて完成していったことで、語ることができます。弟子達への初めの招きと、復活のイエスの招きは切り離して語ることはできないからです。 弟子達は、イエスの招きに応える中に、邪道なものも入り混じっていなかったとすれば嘘になります。湖は時として穏やかで美しく、時として嵐がおそいかかりました。彼らはイエスと共に舟の中で死ぬ程怖い思いも体験しました。嵐の勢いが、イエスの力よりも大きく見えたときに、イエスに叱られました。イエスの出世をのぞみ、内心、それに与ることを期待していたことをイエスさまに見透かされました。ゲッセマネの園で眠りこけて、イエスの苦しみを分ちあうことすらできませんでした。網の中身は、弟子達の心そのものだったのです。 良い人だけが教会に来るのではありません。ましてや、自分達の中にも良いものと悪いものが混じって同居しています。この罪深い私達が、招かれた、という事実を認めないわけにはいきません。 イエスさまの十字架の死は、弟子達を打ちのめしました。人生は自分がコントロールするものでなく、人間が、いかに小さな者でしかないことを知らされました。本当の人間は、愛の交わりの中でしか生きられない存在であることがわかりました。なによりも、喪失感の内に、どんなに、自分達が主イエスを愛していたかに気がついたのです。 復活のイエスは、再び、湖で弟子のペトロを招いたことを思い出しましょう。「あなたは若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」。イエスの招きは、私達に、神の領域に身を委ねる自由を与えようとしています。本当に主体性を持って生きる者が、しがらみを放し、神に委ねることができるのです。イエスさまと魂の深いところでつながり、イエスの招きに「はい」と応える「間に合う者」とならせていただきましょう。 #
by mizo_church
| 2017-01-20 17:08
| 礼拝メッセージ集
エレミヤ書31:15〜17 マタイによる福音書2:13〜23
新年、おめでとうございます。新しい年も神様の祝福がありますように。教会暦では、イエスの誕生を祝う降誕節です。メシアの誕生は、ユダヤの人々に喜びと希望を告げました。しかし、そこには大きな不幸が伴いました。古代の文献によると、ヘロデ王は3人の自分の子を殺し、さらには、イスラエルの敬虔な者を殺し、自分の死を悲しむように演出することを部下に命令したとさえ言われています。ヘロデ王は、幼子イエスが将来、自分の王座を揺るがすことを感じ、恐怖におののいたのでしょう。そして、なんと、ベツレヘムに住む2歳以下の子どもを殺害するのです。ヘロデの暴力的な権力は、人々を震撼させます。 この悲劇は、預言の成就であるとあります。エレミヤ書が引用されています。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子どもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子どもたちがもういないから」。虐殺にあった地の叫び、子を失った母親の泣き声。イエスのゆえに多くの幼児が虐殺された、ということが、イエスの将来にどのような暗い影を引き起こしたのでしょうか。イエスの人生において、多くの人の犠牲の上に生きているという負い目や悲しみを、イエスはどのようにうけとめていたのか、と私は、ふと考えたりもします。一方で私たちは、ヘロデの幼児虐殺事件を悲劇で終わらせるのでなく、人間の罪の現実のただ中に神の御意志が着々と進んできることを、信仰をもって受けとめたいと思います。神のみ救いの業を、私達は謙遜と信仰をもって受けとめ、悲劇の中に働く神の業を見出すのです。 ヘロデの愚かな行動をかいくぐり、マリヤとヨセフは幼子イエスを抱いてエジプトに逃げます。現在の言葉にすれば、ヨセフとマリアの家族は政治難民として、異国の地エジプトに逃れたのです。旅は人生にしばしば例えられます。救い主をかかえてのエジプトへの旅は過酷を極めた旅でありながら、神と共にある祝福を伴う旅でもあります。私達も、負い目を持ちつつ、生きることを赦され、なお、神様から前に押し出されています。 #
by mizo_church
| 2017-01-06 22:09
エレミヤ書31:15~17 マタイによる福音書2・13〜23
福島の原子力発電所の事故により避難したある生徒は「避難者」と呼ばれること等々、避難した子ども達へのいじめが、各地で起こっているというニュースが私たちに衝撃を与えています。子どもの問題、子どもの事件は、大人社会を映しだしているといわれます。最も弱い立場に置かれた者へのいじめは、国家規模でもまかりとおっています。沖縄、辺野古米軍基地の問題は、立法府だけでなく、司法の世界でも、沖縄の痛みに無理解な判断が下されています。弱い者をさらに追い詰める闇は、この世をおおい、やさしさ、思いやりをかき消すようであります。それはまた、私たちの内にも潜んでいます。「あながたは世の光である。ともしびをともして升の下に置く者はない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とイエスは語りました。 イエスが「あなたがた」と呼びかけるのは弟子たちです。そして今、私達へも語られています。 クリスマスは神の子イエスの誕生を祝います。イエスは、貧しい馬小屋で生まれました。宿屋がイエスを拒否したことは、この世が救い主である神の子をしめだしているかのようです。一方で、イエスの誕生を祝ったのは律法を守ることのできない者、野宿をする羊飼い、また、ユダヤ人が救いはないと軽蔑する異邦人の星の学者であります。ユダヤの民にとって救いはないといわれた者たち、そのような者たちが神の子イエスの誕生をお祝いしたのです。救いは神様から遠く離れているかのような者、見下されている者たちにおよんでいることを教えています。 神の子としての生涯を全うしたイエス。父ヨセフ、母マリアの子として生まれたイエスは、大工の父親の仕事を手伝い、律法の書を学び成長しました。そして、ガリラヤで宣教を開始しました。苦しみにいる者に寄り添い、助け、悲しむ者と共に悲しみの涙を流し、嘆きの叫びをあげ、時に弟子達のイエスへの無理解、権力者への傲慢に怒りを発し、神の国と救いの道を示し続け、十字架につけられ、終わりをとげるのです。 その生涯は、神様から見放されているようで、神様の御手のうちにあり、神様の愛から遠く離れているような歩みでありながら、最も神様に近いところにおられ、神様に見捨てられているようでありながら、神様の救いに与り、十字架上で生涯を閉じ、よみがえり、天にのぼりました。 ここにあるクランツのロウソクの光は強い光ではありません。ロウソクは燃えることによってロウをとかし、消えてなくなります。自らを溶かして光を放ち続けているのです。光を放つために、ロウはとけていくのです。 イエスに「あながたは世の光である」と呼びかけられた私たち。私たちも、他者のために自分を与える聖なるロウソクとなるべく、神様から命を与えられました。内なる闇に光を照らすキリストは、私たちに社会的に弱くされた方たちの声を聞かせます。そこにこそ、光を見出すことができることを、私たちは信仰をもって受け止めたいのです。人の世の冷たさ、片隅を照らす光、その光に連なる者となりましょう。 私たちは小さな神様の愛を持ち寄りましょう。その愛を灯し続け、生き抜くよう、一人ひとりに命が与えられ、キリストに導かれていることを覚え、お祈りいたしましょう。 #
by mizo_church
| 2017-01-06 22:05
| 礼拝メッセージ集
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