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「真実の力」 牧師 竹島 敏
イザや65章17—25節 マタイ28章11—15節 『兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている』(マタイ28・15) (祭司長たちのたくらみ)ここで祭司長たちがとった行動は、番兵達に多額の金を与えて、弟子達がイエスの遺体を盗んでいったという話をでっちあげるということだった。それが今朝のマタイ28章11節以下に記されていることだ。それはそれだけ、主イエスの復活がもしかしたら本当だったのではないか、という危機感を祭司長たちが強く持っていたということだ。ではこの主イエスの復活とはいったい何だったのか、福音書はその出来事を様々に報じているが、それがどのような出来事であったにせよ、そこで一番大きな出来事は弟子達一人一人の復活体験であった。弟子達はみな、何らかの形で復活の主イエスと出会い、心燃える‥燃やされる体験をした。そしてそのような体験をした弟子達は、勇気をもって主イエスの言葉を宣べ伝える力を取り戻していた‥、というか、それまでにないほどの力強さで新たに宣教の業に仕えていったのだった。イエスの十字架の死と復活という出来事が、そのように弟子達一人一人の復活を生み出していったのだった。一方、祭司長たちにとってそれは、また新たな脅威であったに違いない。 (祭司長たちのおそれ)そして私はこう思う。あの祭司長たちが、まことに恐れたのは、あの主イエスの生き方が、再び、多くの人に影響を与え、多くの人を動かすことになることだったのではないかと‥、実に、あのイエスの十字架の死は、イエスが弟子達に伝えた「神の教え」の帰結であった。イエスは「神の教え」を、ただ言葉だけで伝えたのではなく、自らの行動を通して示し、伝えたのだった。イエスの十字架の死を経験した弟子達はきっと、十字架を見上げるたびごとに、かつて主イエスがどのような言葉を語り、どのような生き方をされたのかを強烈に想い起こしたことだろう。そして、その後に従っていく決心をあらたにしたに違いない。実に、あの祭司長たちが、まことに恐れたのは、十字架を見るたびごとに人々が主イエスの生き方を強く思い起こし、そのような生き方にならって生き始める人がふえていくことだったのだろうと思う。そのような生き方を志す人が増えていくということは、当時の祭司長たちにとっては、自らのあり方、生き方が問い直される、ということにつながったからだ。律法の陰に身をひそめ、自分たちの既得権益を守り抜きたかった祭司長たちにとってそれは大変迷惑なことであったわけだ。それで彼らは必死に抵抗し、「弟子達がイエスの遺体を盗んでいった」という話をでっちあげたわけだ。しかし、彼らのたくらみはうまくいかず、その「うそ」はすぐにばれてしまった。そればかりでなく、そのような彼らの「愚かしさ」が後々まで語り継がれるようになってしまったのだった。 (真実の力)危機的な状況におかれた時、主の十字架を見上げず、また悔い改めず、この世の価値観やまわりの人達の顔色に気をとられあたふたと策を弄する愚かしさがどういう結果を招くのか‥、そうではなくどんな時も主の十字架を見上げ、主が語ってくださったこと、行ってくださったことを思い起こし、その真実に愚直に立ち続けよ、と、今朝の聖書は私たちに語りかけているのではないだろうか。主の十字架に秘められた真実の力のみが、直面している問題を解決へと導き、あなたたちをまことの平和へと導く、と告げているのではないだろうか。今朝、私たちに与えられた、このマタイ福音書28章の11節から15節‥、主イエスの復活にまつわる非常に短いエピソードでありながら、とても大切な事を私たちに伝えているように思うのだ。
by mizo_church
| 2009-04-30 11:33
| 礼拝メッセージ集
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