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「復活の主と出会う」 牧師 竹島 敏
エゼキエル36章22—28節 マタイ28章1—10節 『あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ』(マタイ28・6) (どこで主に出会えるのか)マタイによる福音書は「日曜日の朝、まだ暗いうちに、マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエスの遺体が納められた墓に行った」と記している。彼女たちはそこで天使と出会う。天使は、ここにはもうイエスはおられない、復活されたイエスはガリラヤに行かれた、そこで会えるだろう‥、と告げる。そしてその直後、復活のイエスが二人のマリアの前にあらわれる。そして、「ガリラヤで会おう」と言われたのだ。これが、今朝私たちに与えられたマタイ福音書が私たちに伝えている内容だ。復活のイエスが、「そこで会おう」と言われたガリラヤ‥、そこはいったいどういう場所だったのだろうか。ガリラヤは当時、ローマ帝国の支配のもとにあって、そこに暮らす人達の多くは、とても苦しい生活を強いられていた‥、と言われている。つまり、そのような苦しみの満ちている場所に復活された主イエスは行かれた‥、そこであなたたちは再び主に出会う‥、と言われているわけだ。復活したイエスは、ガリラヤのような、苦しむ人、悲しむ人が大勢いる場所へ、真っ先に行かれた、というわけだ。そのようなメッセージを天使から‥、また復活の主イエスから直接に、一番最初に受けたのは、もっとも近くイエスから教えを受けていたあの弟子達ではなく、この、二人のマリアであったということに、まず注目しておきたいと思う。 (ニコデモとイエス)そして今日は、マグダラのマリアともう一人のマリアと共に、ニコデモという人にも注目しておきたいと思う。ヨハネによる福音書の19章38節以下、新約聖書の208頁のところだが‥、その39節に「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」、とある。自らの身の危険をもかえりみずこの人は、イエスを慕ってやってきた。イエスの遺体を手厚く葬りたいという想いでやってきたのだった。このニコデモという人は、エルサレムで「ユダヤ人の指導者」「イスラエルの教師」と言われていたファリサイ派に属する人だった。かつて、イエスと出会ったにもかかわらず、その言葉を信じて受け入れることができなかったという痛みをひきずっていた。それは「新しく生まれなければ神の国を見ることができない」というイエスの言葉だった。しかし、そんなニコデモが、主イエスが十字架にかけられた後にようやく、新しく生まれるという世界に到達できるようになるのだ。それはおそらく、あの時、主イエスに言われた言葉が、のどに突きささった、とげのように何かをのみこむごとにそこにさわって痛むように、彼のこころに突きささって彼をあるひとつの方向に促し続けたからだと思う。「新しく生まれなければ神の国を見ることができない」とズバリ言われた一言が、のどにつかえたとげのように、あの夜以来、ニコデモの心につきささっていたのだ。そしてその一言は、彼の内側で彼と戦い続け、そしてやがてどんなに抵抗しても、次々と彼を打ちやぶり、その言葉が大きく、強くなって彼を窮地に追い込んでいったのだ。そしてその言葉は、ほかの一切に打ち勝って、それ以外に救いのないことをニコデモに悟らせたのであろう。 (主イエスの言葉が私たちのなかで復活する)私たちがこの世で味わう全ての痛み、全ての苦しみをすでに主イエスは味わいつくされて、今朝私たちのために復活された。この復活の出来事を見上げて、どんな時も、主が共にいて導いてくださる…、という信仰に生き抜く生涯を送ってまいりたいと思う。
by mizo_church
| 2009-04-20 11:39
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