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「救われるために」 牧師 竹島 敏
イザヤ書49:14—21 使徒言行録4:32—37 『信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた』(使徒4・32) (信者たちの生活)今朝、私たちに与えられた使徒言行録は、初代教会の信者たちの生活を報告している。私は、この財産の共有という非常に難しいテーマに取り組み続けた当時の使徒達また信者達の記録から、たとえ失敗しようとも、主イエスが実践し、実現させようとした社会のあるべき姿に向かって、一歩でも二歩でも、近づいていこうとした彼らの非常に強い意志を感じる。それは「一緒に救われていきたい」という彼らの切なる願いであり意志であった。 (救いの道)では主イエスの救いとはいったい何なのか。「救う」という言葉を辞書でひくと、「あぶない状態、苦しい状態、悪い環境、貧しい境遇などにある者に力を貸し、そこからのがれるように助けること」とある。これが「救う」という日本語の一般的な意味だ。一方私たちは、洗礼を受けたことを、救われた、と表現することがしばしばあるのではないだろうか。イエスの福音を信じてクリスチャンになった人のことを「救われた人」と呼び、まだ、そこまでいたっていない人のことを「まだ救われていない」と言ったりする。聖書と出会った‥、教会と出会った‥、そして主イエスの存在を知り、信じるようになった‥、そして洗礼を受けた‥、救われた‥、しかし、それは厳密に言えば、洗礼を受けたことによって、生涯、救いの完成に向かって導かれ続けるという保証が与えられた、ということなのだと思う。すなわち、洗礼を受けたからといって、それまで抱えていた問題の全てが一気に解決するとは限らないのだ。でもそれまでと確実に違ってくるのは、主イエスが常に共にいてくださる、ということだ。これは大きな違いだ。それまでは一人で誰にも言えず悩んでいたようなことを主イエスが聴いてくださる‥、そして、聖書を通して語りかけてくださり、問題の解決に向けて一歩一歩導いてくださる‥、これは本当に大きな違いなのではないだろうか。問題が解決するまでには、なお多くの時間が必要となるのかもしれない‥、しかし、痛み苦しみを共に担い、導いてくださる方が与えられた‥、この方は生涯この私を見捨てることはない‥、そのような祝福された導きの道を、「救いの道」と言うのであろう。つまり私たちは、実際にはそのようにして救われていくのであって、洗礼を受けた時点で全ての痛み苦しみがなくなるわけではないのだ。 (主イエスの業を受け継ぐ)そして今もなお私たちは、一つの問題が解決すれば、また次の問題を抱え込む、という形で常に様々な痛み苦しみを負って、日々の生活を送っている。それは、生涯そうなのかもしれないが、しかし、そのような痛み苦しみの日々においてこそ私たちは、主イエスとのより深い出会いを経験する。そして、主イエスと共に数多くの痛み苦しみを乗り越えて生きた証こそが、身近な隣人を救うことに‥、また、次の時代を生きる人たちの財産になっていくのだ。今朝の使徒言行録が伝えている、持ち物を共有した、という信者たちの生活は、やがて崩壊していったのであろうが何とか具体的な困窮を互いに助け合い、支え合いたいという彼らの精神は今なお、この私たちにも、強い促しを与えているのではないだろうか。かつて、いと小さくされた人々に対して主イエスがなさった救いの業を抽象化し観念化して骨抜きにしてしまうのではなく私たちもまた、この使徒言行録にあらわされた信者たちのように、そのままのきわめて具体的な形を見つめ、継承し、分かち合っていくという道を模索していきたいものだと思う。
by mizo_church
| 2009-07-15 20:26
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