日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「見えないものを待つ」牧師 竹島 敏ハバクク3章17~19節 ローマ8章18~25節 『わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです』(ローマ8章25節) モノ化される人間「被造物は虚無に服している」‥、今朝のローマの信徒への手紙8章20節は、そう語っている。「虚無」とはいったいなんだろうか。たとえば、朝の通勤ラッシュのホームで、人身事故により電車が遅れる、というアナウンスが流れる。その時、ホームにいる多くの人は何を思うのだろうか‥。そのアナウンスを聞いて、まず一番最初に思うことは、「電車が止まった‥、遅刻してしまうかもしれない‥、」ということなのではないだろうか。そして次に思うことは、「別の経路で何とかおくれずに目的地まで行けないか」ということなのではないだろうか。そしてそれが不可能であるとわかった時には、「なんと身勝手なことをしてくれたのだ」、と、何でよりによってこんな時に人身事故が起こるのだ、と、多くの人は、だんだん腹立たしい思いに、なってくるのかもしれない。そうだとすれば、その通勤ラッシュのホームに満ちているのは、思い詰めて、電車に飛び込んで自ら命を絶った人への、「全く迷惑だ」という怒りであるのかもしれない。その時、思い詰めて電車に飛び込んだ人は、ラッシュのホームで仕事場や学校に急いでいた人たちの多くにとって、何か、自分たちの通勤路や通学路をふさぐ、大きな石か丸太のような存在になっているのではないだろうか。つまり、その人は彼らにとって人間ではなく、彼らの通勤路や通学路をふさぐ「モノ」なのだ。普段私たちは、そこまでは、あまり意識していないのかもしれないが、そのように人間を人間としてではなく、「モノ」として見ている、また、扱っていることがあるのではないだろうか。それは、そのように人間を「モノ」のように見ることを、また扱うことを強いる環境があるからだ。私たちが誰かを、「モノ」のように見てしまうことがあるのは、実は、私たちもまた誰かから「モノ」のように見られ、扱われることがあるから‥、なのだ。そしてそのように、人間が人間として扱われない‥、道具や「モノ」のように見られ、扱われてしまう‥、そのような時と場を生み出す力を、「虚無的な力」というのではないだろうか。強大な虚無の力ここでパウロは「被造物全てが『虚無』の苦しみの中にあるのだけれどもそれは、イエスの霊・聖霊を受けている私たちも例外ではない」と言う。つまり主イエスを救い主と信じイエスの霊の導きに従って歩んでいるパウロのような者達であっても、この「虚無の力」から逃れることはできない‥その影響を受けること無しに生きていくことは不可能だと言っているのだ。パウロはここで「わたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と告白している。それほど、この「虚無の力」は強大なものであるということがわかる。御言葉に深くとどまり小さな一歩を積み重ねるしかしパウロはここで語るのだ。「決して希望がないわけではない」と。「虚無」の苦しみのなかにあっても主イエスの霊の導きに従って一歩一歩、誠実な歩みを積み重ねていくなら必ずいつかこの苦しみから解放される時が来る、と。心の中でうめきながらもその時を待ち、主イエスが導いてくださる道を一歩一歩すすんでいこう、とパウロは呼びかけている。あまりにも目に見えるものにとらわれ、ふりまわされている私たち‥、そのような日々から解放されるために、そして、うすっぺらではない本当の生きる希望を見いだしていくために、忍耐して聖書の言葉に、より深くとどまる歩みを一歩一歩積み重ねていきたいと思う。
by mizo_church
| 2009-09-14 23:22
| 礼拝メッセージ集
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