日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「共に罪を担って」牧師 竹島 敏創世記4:1-10 マルコ福音書7:14-23 『主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか」』(創世記4:6) (悔い改めない人間)今朝、私たちに与えられた創世記の4章、このカインとアベルの物語は、私たちにいったい何を伝えようとしているのだろうか。私が、この物語を通して一番感じるのは、自分にとって喜ばしくないことを、全て他者のせいにしようとする人間の姿だ。カインは、確かに長子としてのプライドを傷つけられたと思うが、それは、神のせいでも、アベルのせいでもなく、自分のせいなのだ。カインがまずしなければならなかったのは、他者に怒りを向けることではなく、なぜ神は、アベルの献げ物の方に目を留められたのだろうかと、自らの献げ物の内容や献げ方を反省することだったのだ。まず、冷静に自分自身をふりかえり、点検し、改めるべきところがあれば改める‥、それが、まず一番にカインがなすべきことであった。しかしカインはまず、怒りを他者に向けた。神とアベルに‥。そして、神から叱責されますますエスカレートしてしまったカインは、全ての怒りを弟アベルに向けてしまったのだ。そしてこのカインの姿は、実に私たち自身の姿なのではないかと思わされる。ここまでエスカレートすることはないとしても、私たちもまた、カインのように、自分にとって喜ばしくないことをすぐに、人のせいにする、という傾向があるのではないだろうか。(責任を負う決意をする時、神はあらわれる)確かに私たちの日常には、喜ばしくないことが満ちている。しかし私たちはそれを神のせいにすることはできない。ふだんは神から与えられた自由を思うがままに行使し、神のことなど全く思い出しもしない‥、それなのに、困ったり、都合が悪くなったりしてきた時だけ、なぜ、こんなことになったのか‥、なぜ神は、うまく助けてくれなかったのか‥、とつぶやいても、それはだめなのだ。このように神から自由意志を与えられた私たち人間は、私たちの行動一つ一つの結果を神のせいにすることはできないのだ。人間自身がその責任を負って生きていかなければならないのだ。そして、全てを神のせいにするのではなく、自ら責任を負って生きていく決断をする時に、神は私たちの目の前にあらわれてくださり、新たな救いの道を示し、導いてくださるのであろう。(愛されて初めて、悔い改めることができる)そしてまた、人は他者から愛されることなくして、正しく生きることはできないのだと改めて、思わされる。人類最初の殺人、という罪をおかしてしまったカインもまた、生きながらえることをゆるされるという、神の愛・神の憐れみを受けて初めて、悔い改めることができた。そしてようやく、正しい方向に、生き始めることができたのだ。今日は、在天教友記念礼拝だが、今は天にあるお一人お一人も、また今なおこの地上を歩む私たち一人一人も、その誰もが自らの命の奥深くに、ひそかに罪を抱えていた、また抱えている、ということを思わされる。しかし、そのようにひそかに罪を抱えながら歩む私たち一人一人の命に差し込んでくる、キリストの愛の光がある‥、そしてその光を仰ぎ見ながら歩む‥、それが私たちキリスト者の人生なのではないだろうか。自分の罪からも、他者の罪からも目をそむけず、また何よりも共に罪を担って歩んでくださる十字架の主イエスを一心に見つめて歩み続けた私たちの信仰の先達の歩みを、今朝、私たちはもう一度、ふりかえりながら、ますます闇が深まってくるかのようなこの地上の世界に、何としても一筋の光をもたらす者にされたいと心から祈り願いたいと思う。
by mizo_church
| 2009-11-12 00:07
| 礼拝メッセージ集
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