日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「神を思う」牧師 竹島 敏イザヤ48:1-8 マルコ8:27-33 『あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』(マルコ8:33) (十字架へのつまずき)ペトロをはじめとして弟子たちは皆、十字架につまずきました。神の子なら‥、救い主なら‥、なぜ、十字架の出来事なしで、私たちを救うことがおできにならないのか‥、と、苦難を背負って十字架への道のりを歩もうとされる主イエスの思いが、弟子たちには全く理解できなかった‥、理解できないばかりか、許せなかった、ということでありましょう。自分たちは主イエスの招きに応えて、それまでの生活を全て投げうって従ってきた‥、それはこの方こそがメシアとして、この荒んだ世を改革し、さらにこの世の王となって全てをおさめてくださる、と信じていたからだ、と。それが、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるなど、ありえない、というわけです。そんな結末のために自分たちはこれまでの人生の全てを投げ打ったわけではない‥、許せない‥、というわけです。だからペトロは、イエスをわきへお連れして、いさめ始めたのでした。(挫折から始まる信仰)しかしもしもあの十字架の出来事がなかったならば、初代教会の力強い宣教は起こらなかった‥、と断言してよいのではないでしょうか。使徒パウロもコリントの信徒への手紙一の2章2節において、こう語っています。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と。パウロは、イエスキリストの神を宣教していくにあたって最も大切なことは、十字架につけられたキリストを‥、その深い意味を伝えていくことだ‥と考えていたのです。そのためにはまず自分自身が、十字架につけられたキリストをもっと深く知らねばならない‥、そういう思いで、この言葉を語ったのだと思います。もしも私たちの信仰から、十字架を取り去ってしまったなら、後には何も残らない‥、と言ってよいでしょう。結局今日のこの箇所においてペトロが主張したことは、「苦難と十字架ぬきの栄光」ということだったと言えるのでしょうが、そのような自分の勝手な願望が挫折していくところから、まことの信仰が始まる、ということなのではないでしょうか。(復活に向けた希望)私たちもまた時に、「苦難と十字架ぬきの栄光」を求めてしまうことがあるのかもしれません。次から次へとやってくる苦難のなかで、私たちもまたペトロのように、イエスに対して文句を言いたくなることがあるのかもしれません。しかし、そのような時こそ私たちは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になってくださったイエスを見つめ‥、十字架の死に至るまで従順に歩んでくださったその意味を深く思い起こしたいと思うのです。私たちの主イエスは、今も、十字架につけられたままの御姿で私たち一人一人の傍らに立ち、私たちそれぞれに背負わされている苦難に連帯してくださっています。そして、私たちそれぞれもまた、互いの苦難に連帯して生きるように、と促しておられるのです。レントのこの時、この主の促しをどれだけ深く感じ取っていけるのか‥、そこに、復活に向けた私たちの希望がかかっているように思います。私たち一人一人の救いのために十字架にかかってくださった神・イエスを思い、その促しに従っていくことこそが、まことに人を愛することにつながっていくのだと信じて、このレントの時を歩んでまいりたいと思います。
by mizo_church
| 2010-03-21 19:59
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