日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「聖霊に満たされて」牧師 竹島 敏アモス7:10-15 使徒13:1-12 『総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った』(使徒13:12) (魔術をしりぞける)今朝の使徒言行録の4節以降は、聖霊によって宣教へと送り出されたパウロとバルナバが魔術師エリマと対決する、という場面です。9節を見ますとパウロは聖霊に満たされて魔術師エリマをにらみつけ、彼にきびしい裁きの言葉を告げました。するとエリマの目がかすんできて、すっかり見えなくなってしまった‥、というのです。そしてこの出来事の一部始終を見ていた総督が心動かされ、イエスを主と信じる信仰に入った、というのです。ここで、パウロが魔術師エリマを退けた、ということは、とにかくこの痛み‥、この苦しみ‥、この問題‥、ただひとつこのことを解決してくれるのなら、何でもする、と言わんばかりの庶民の願望を退けた、ということでもあるのだと思います。そのような切実な願望に理解を示しつつも、もっと大きな視点から、そのひとつの問題を見つめ直すことの大切さを私たちに知らせようとしているのではないだろうかと思います。(主の教えに驚く)そして、ここで注目しておきたいのは、このようなパウロのふるまいを通して信仰に入った総督のことです。総督はこの出来事を通して、イエスを自分の救い主として信じて歩むということは、魔術的な奇跡をもはや望まず、現実をしっかりと受け止め受け入れて‥、直視して生きていくことだと、悟りはじめたのではないでしょうか。時にそれは、耐え難いほどの痛みを伴なうことなのでしょうけれども、そのつらい歩みを共に歩み通してくださる方が与えられた‥、それこそが何にも代え難い救いであるということを悟りはじめたのではないでしょうか。今朝の最後の箇所の12節には、総督が、このような「主の教え」に非常に驚いた、と、記されていますが、このような驚きは、この後もずっと続いていったことだろうと思います。(磨きあげられていく信仰)私たちは皆、様々な痛みや苦しみを抱えて、救いを求めて教会にやってきました。そして教会に連なる者とされました。洗礼は、信仰生活の入り口でありました。実際にイエスを信じて歩む生活を送っていくなかで、様々な疑問がわいてきたり、新たに葛藤が深まったりしたこともありました。しかし、そのようにして自らの信仰の中身が問われ、揺さぶられ、時には、もう信仰などなくなってしまった‥、というような出来事をへて、私たちの信仰は、ほんとうのものに磨きあげられていくのだと思います。そして、そのプロセスにおいて私たちは、魔術的な奇跡をもはや望まず、現実をしっかりと受け止め受け入れて‥、直視して生きていくことを身につけていくのです。そしてその道をどこまでも同伴してくださる主イエスと固く固く結び合わされていくのです。洗礼を受ければ、様々な悩み苦しみが一挙に解決し、バラ色の人生が開かれていくわけではありません。洗礼を受けて主イエスと共に歩む人生が私たちに約束しているのは、現実をしっかりと受け止め受け入れて‥、直視して生きていくことを身につけさせる、ということです。そのような歩みを、主イエスが、生涯、支えてくださる、ということです。私たちはその道をどこまでも同伴してくださる主イエスと固く固く結び合わされ聖霊に満たされて、苦難のなかにも確かな平安と、そして使命を与えられて生きていくのです。そこに私たちの救いがあるということを聖書は告げているのです。
by mizo_church
| 2010-09-11 11:06
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