日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「ひとつの霊に導かれて」牧師 竹島 敏民数記11:24-29 コリントI 12:14-26 『それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあっています』(コリントI 12:25) (共同体形成の鍵)今朝のコリント書において使徒パウロは、イエス・キリストの体といわれる共同体形成の鍵は「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要」とされていることを認めることから始まる、と言い切っています。このことを大事にしていくならば、25節以下にあるように、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあい、一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶ、ひとつの体が形成されていくのだと言うのです。(弱く見える部分が一番大切)このように体の中でほかよりも弱く見える部分、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分、そのような弱さや、損なわれているかのように見える部分、人をこそ尊重し大切にしていく、という考えは、特にパウロ独自のものであるわけではなく、旧約も含めて聖書全体を貫いている中心的な考えである、ということができるでしょう。しかし、なかでもパウロは、このことをイエスの福音の中心である、と捉え、このことに自らの命を賭けて生き抜いた人でした。実にパウロ自身が、肉体のとげ、と言われる自らの弱さを担いつつ、人間のすべての弱さを経験しつくしたイエス・キリストにのみ希望を置いて生きぬいたのでした。そのような自らの経験にもとづいてパウロは、多くの痛みと病を負った我らの主イエスが、そのかたわらに立たれるところの、最も弱く見える部分・人が、共同体の中で一番大切なのだという教会論を宣言したのです。そこから、イエス・キリストの体、と言われる共同体形成が始まっていくのだと宣言したのです。(主の御手のぬくもりを感じながら)今朝、私たちの教会に、あらたに一人の方が、加えられようとしています。洗礼という、主イエスと固く固く結ばれる時‥、それがいつなのかは主イエスのみがご存知のことなのですけれども、しばしばそれは、私たちが自らの強さを感じている時にではなく、弱さを感じている時に与えられるということを今、私はあらためて想わされています。私たち一人一人は、時として強がることがあっても、また強く見せることをしいられることがあったとしても、本当は弱く、傷つきやすく、はかない存在なのではないでしょうか。しかし、もっとも弱く見える部分から大切にされていく共同体・交わりが生みだされていくのなら、そこに本当にそのままの自分で安心していられる居場所、それぞれにとっての癒しの場がつくられていくのだろうと思います。様々な状況にあって、教会から離れている人、教会に来ることができない人、今、そのかたわらにあって、そこから私たち全てをひとつの共同体として、抱きしめようとしておられる主の御手のぬくもりを感じながら、今朝、私たちのこの教会において執り行なわれる洗礼の式に、共々に参与してまいりたいと思います。そして、今朝、あらたに、イエス・キリストの体の部分とされる方と共に、私たちもまた、イエス・キリストの体の部分として‥、かけがえのない一部分として、互いに敬い、協力しあいながら、主イエス・キリストの体を、この世界に、証していきたいと思います。
by mizo_church
| 2010-09-11 11:15
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