日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「キリストの苦しみにつながって」牧師 竹島 敏創世記32:23-33 コロサイ1:21-29 『このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています』(コロサイ1:29) ※記事下に掲載される広告は、エキサイトブログによるもので、当教会がおすすめしているものではありません。 (苦しむことが喜びに)今朝私たちに与えられましたコロサイの信徒への手紙の24節以下においてパウロは、「今やコロサイの信徒たちのために苦しむことが喜びとなった」と告げています。そして「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている」と述べています。ここでパウロが伝えようとしていることは、主に苦しんでいるのは自分ではない‥、ということです。自分ではなくキリストが主に苦しんでおられる‥、自分はその苦しみのほんの一部を担っているにすぎない‥、そういう気持ちであったのではないかと思います。なぜそのような気持ちになったのでしょうか。それは主イエスが、この世界の重荷を苦しみつつ背負ってくださっていることを痛感していたからだと思います。だから、自分もその重荷の一部を担いたい‥、そしてイエスと共に苦しみたい‥、そのようにして初めて、主イエスを強く深く感じることができる‥、そう思っていたのではないでしょうか。私たちが思想やイデオロギーとしてではなく、生きた存在として主イエスを深く確かめられるようになるには、このように、イエス・キリストの苦しみにつながる、ということが、不可欠になってくるのだと思います。(神の国へ向かう苦しみ)では、具体的にキリストは何に苦しんでおられたのか‥、ひとつには、コロサイの信徒たちが、正しく礼拝を守り、キリストの教えに忠実に従って生きられるよう苦しまれた、ということでしょう。そして「世をまどわす様々な教えに振り回されず、イエスをキリストとして崇める礼拝がきちんと行われ、そして礼拝において示されたキリストの教えが日々、実践されていかねばならない‥、」パウロは、そう強く願っていたわけですがそれは、その道でしか、まことの平和、まことの正義を、この世に打ち立てることができないからです。すなわち、主イエスが望まれた神の国‥、まことの正義が打ち立てられ、まことの平和が実現する神の国を、地にもたらすためには、イエスをキリストとして崇める礼拝がきちんと行われ、そして礼拝において示されたキリストの教えが日々、実践されていかねばならない‥、そのための苦しみであるならば、私は喜んで苦しもう‥、とパウロは言っているのです。(闘われる主と共に)そして、このキリストの苦しみにあずかる、ということは、ただたんに耐えてがまんして苦しむ、ということではないはずです。最後の29節においてパウロは「このためにわたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」と語っていますが、大きな苦しみを共に背負い連帯しつつ主イエスは闘われるのです。まことの正義と平和実現のために、神の国めざして、わたしたちの内にあって闘ってくださるのです。主イエスが望まれた神の国‥、まことの正義が打ち立てられ、まことの平和が実現する神の国を地にもたらすためには、イエスをキリストとして崇める礼拝がきちんと行われ、そして礼拝において示されたキリストの教えが日々、実践されていかねばならない、そのための苦しみであるならば、私は喜んで苦しもう‥、とパウロが言い切ったその姿勢を見つめて、私たちもまた、私たちが日々味わう様々な苦しみの背後により大きな苦しみを背負って立っておられる主イエスの姿を認め、この御方の苦しみにつながって歩んでまいりたいと思います。
by mizo_church
| 2010-10-28 21:04
| 礼拝メッセージ集
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