日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「主が共におられる」牧師 竹島 敏イザヤ書11:1-10 ルカ福音書1:26-38 『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む』(ルカ1:・35) (マリアの信仰告白)今朝のルカによる福音書は、「マリアの信仰告白」とも言われている箇所です。けれども、そのような心からの信仰告白をするまでには、マリアは様々なとまどいや、怒りや、疑いなどを経験しなければなりませんでした。しかしそれを率直に神の使いにぶつけていき、また、神の使いの言葉が真実なものであるのかどうかを自ら確かめようとし、そして他者の証にふれて初めて、マリアは心の底から信じる者になったのです。(クリスマスの喜び)今朝は、この後、堅信礼と洗礼が行われます。キリスト者にとって洗礼はゴールではなくスタートだと…、よく言われる言葉ですが、本当にそうだと思います。洗礼はゴールではなくスタート…、神はしばしば、マリアにされたような…、私達人間には不可解な、にわかには信じがたい御業を起こされます。なぜ神は、こんな事を言われるのか…、されるのか…、と、とまどうことや、できればこのことには関わりたくない、ということや、場合によっては怒りたくなるようなこともあるかもしれません。神とはいったいどういう方なのか…、神がわからなくなる、見えなくなることもあるのでしょう。しかしひとつ言えることは、そのような様々な葛藤なしに、私達は神との深い出会いやイエスとの深い交わりを味わうことは決してできない、ということです。自分に与えられた課題の重さに、もう一歩も前に進めない、という想いのなかでうずくまってしまうこともあるいはあるかもしれません。しかし、そのような時にこそ、主イエスは私達一人一人の傍らにいて、共にうずくまってくださり、言葉にならない私達のうめきを祈りとして受けとめ、とりなしてくださいます。そのような方が、私達一人一人の傍らに来てくださった…、それが私達に与えられるクリスマスの喜びなのです。(悲しみが満ちているところにこそ)私達の主イエスは、喜びが満ちているところにではなく、悲しみが満ちているところに小さな希望の光を灯すために来てくださいました。そこから全ての人を救う歩みを始められたのです。そのようなイエスの御生涯のスタートが飼い葉桶という場所だったのは、非常に象徴的なことだと思います。私達の主イエスは、神の身分でありながらそれに固執することなく、この地上のもっとも低き、暗き、ところに来てくださいました。最後にもう一度、とまどい、うたがい拒絶しつつも、葛藤したからこそ、最後に心からの賛美をささげることのできたマリアの告白に耳を傾けたいと思います。ルカによる福音書の1章51節以下です。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」。このような「低みに生まれた愛」・イエスが、私達と共にいてくださる、私達と共に歩んでくださる、それが今日、私達に与えられた、「よき知らせ」なのです。今日、私達一人一人の心の内深くに、この御子イエスをお迎えしたいと思います。そして、闇夜のなかで、ただ一人、立ちつくしているような想いに満たされる時も、この御子の光に照らされ導かれて、この御子と共に一歩、また、一歩とすすんでいく者になりたいと思います。
by mizo_church
| 2011-01-23 22:07
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