日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
Twitter
その他のジャンル
画像一覧
|
「深い闇のなかで」牧師 竹島 敏イザヤ書56:1-8 ルカ22:39-53 『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』(ルカ22:48) (愛し抜かれる主)今朝のこの聖書の箇所に記されているイエスの御姿をじっと見つめていると、まさに主は、愛されるよりも愛することを求めるように…、と御自分の態度を通して弟子達に教えようとしておられたのではないかと思わされます。ここにおいて主イエスは、愛していた弟子ユダに裏切られるというつらさを必死にこらえながら、これから次々と裏切っていく弟子達を、また、捕らえようとやってきた人たちまで、守ろうとされるのです。孤独なさみしい気持ちでいっぱいになりながら、しかし、そのようなご自身の想いを全てわきに寄せて、弟子達を愛し抜かれた主イエスの愛、その愛は、この朝、ここに集められた私達一人一人にも向けられていることを、しみじみと受け止めたいと思います。(絶望の中の希望)そして、今日のこの聖書の箇所の後、イエスは大祭司のもとへ連れていかれ、ピラトから尋問され、死刑の判決を受けて、十字架につけられていきます。ルカによる福音書においては23章の26節以下において、その様子が描かれていますが、23章の46節を見ると、そこにイエスの最期の言葉が記されています。『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」』、とあります。マルコ福音書の方を見ると主イエスの最期の言葉は「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、というものだったと記されているわけですが、ルカはこの言葉を福音書には残しませんでした。それで果たしてこの二つの言葉のうち、本当はどちらを最期にイエスは言われたのだろうか、という疑問が沸き起こってくるのかもしれませんが、私は、両方、言われたのではないだろうか、と思います。実に主イエスは、すべての望みが断たれ、思わず「なぜ、見捨てたのか」と神に向かって叫びながらも、最後の最後には、神に自分の全てをおゆだねになったということなのではないでしょうか。つまり具体的には何の望みもない中で、なお、最期の最期には、神にゆだねきることで希望を見ていた、ということなのだと思います。この、具体的には何の望みもない中で‥、ますます闇が深まり、絶望するしかないような状況の中で‥、なお神にゆだねることに希望を見るということ。(十字架の向こうから射してくる光)受難節のこの時、私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何でしょうか。それは、すべてを失ってもなお、向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。絶望の中で、枯れるほど涙を流しながらなお、向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望です。イエスはおそらく、ユダや、その他の弟子達にも捨てられ、神にさえ捨てられたと感じてもなお、十字架の上で、この光を見続けていたにちがいありません。この光に照らされていたからこそ、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつも、最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。そして十字架の向こうから射してくるこの光を主は、ユダの裏切りによって逮捕されていくこの時すでにしっかりと見つめていたからこそ、憐れみのまなざしをもって、なおユダを見つめ、また、これから次々と自分を裏切っていく弟子達を、なお守り抜くことがおできになったのではないでしょうか。私達の救い主・受難と復活の主イエスが、すでにこの時から見続けていた光を、私達も見つめつつ、この受難週を歩んでまいりたいと思います。
by mizo_church
| 2011-07-01 16:52
| 礼拝メッセージ集
|
ファン申請 |
||