日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「ただ主を見つめて」牧師 竹島 敏ミカ7章14〜20節 使徒24章10〜21節 『私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています』(使徒24:16) (良心を保つために)パウロは、今朝の使徒言行録16節において「わたしは、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と語っています。これは、この時もおそらくそうだったのでしょうが、激しいののしりの言葉や、いわれのない中傷にも耐えて、良心を保つよう努める…、ということです。激しいののしりの言葉や、いわれのない中傷に応戦することは、相手の闇の力に引きずり込まれることです。だからそうならないよう常に神を仰ぎ、良心を保てるように祈っている、というのです。このようにパウロは相手がどうあろうと常に、まず、神を仰ぐところから行動を始めていたのです。どんな時も、自らの弱さや不完全さを自覚しながら神を仰ぎ、導きを求め希望を抱き、その結果が、たとえ自分の願いに反することであっても、受け入れる気持ちを持っていたのです。(ただ「この道」を行く)今朝のこの使徒言行録の箇所には、そのようなパウロの姿勢がにじみ出ています。異端だと決めつけられ、排斥されながらもなおパウロは、神を仰ぎつつ、「この道」と呼ばれていたキリスト信仰をまっすぐに歩み通そうとするのです。パウロは、そうすることが、自分が今、直面している問題を根本的に解決していくことになる‥、と信じていたのでありましょう。神が示してくださる「この道」には、常に、主イエスがいてくださり、共に手をとって歩んでくださる‥、それ故、自分は、不当に自分を苦しめる相手に対しても、過剰な憎しみを持つことから解放されて歩むことができる‥、共にいてくださる主イエスの御姿を、ただじっと見つめることから始めることによって、いたずらに感情的になることなく、まことの平和への道を構築していける‥、と信じていたのでありましょう。(苦しみの多いその道の途上で)さて、私達の日常においても、小さな事から大きな事まで、ゆるせない、と感じることがたくさんあることを想います。しかし今朝再び私達は、どんな時もまず、共にいてくださる主イエスの御姿を、ただじっと見つめることから始めたパウロの姿勢を確認しておきたいと思います。そして私達もまた、そうすることによって、過剰な憎しみや恐れ、から解放され、まことの平和へとつながる道を一歩一歩歩んでいけるのだということを覚えておきたいと思うのです。主イエスが共にいてくださり導いてくださる道を信じて行く時、すぐにではないかもしれませんが、人の想いをはるかにこえた新しい道が見えてきます。確かに、当面は何も喜ばしい兆しが見えず、何も変わらないどころか、ますます悪い方向へ向かっているのではないか‥、と感じることもあるかもしれません。しかしその道が、当面、喜ばしいものとはとうてい思えないものであった時こそ、今日の、このパウロの姿勢を思い出してみたいものです。なお苦しみの多いその道の途上で、共に苦しみつつ支え導いてくださる主イエスを、もう一度、ただじっと見つめてみる‥、そのようなパウロの姿勢を思い出してみたいものです。そのようにして、主イエスを見つめつつ、一歩一歩歩んでいくなら、きっと神が備えてくださった時に、本当の解決が与えられる‥、と、今朝の聖書の箇所は私達に語りかけているのではないかと思うのです。
by mizo_church
| 2012-12-02 23:26
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