日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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サムエル記下7・4~16 使徒言行録2・37~47 「わたしたちはどうしたらよいのですか」 「心」 ギリシャ語ではカルディアという言葉です。この言葉は「神との出会いを生じる場所」という意味をもっています。神様との出会いの経験を、わたしたちは心の中にしまっています。そこには、たくさんの傷、悲しみ、苦しみがいっぱいです。私達の心の中で神様はいつも闘い、私たちに愛と喜びを与えているのではないでしょうか。 ペテロの説教を聞いた人々は、自分自身の根底に生きる罪を知らされ、「わたしたちはどうしたらよいのか」と心を揺さぶられました。イエスの十字架の死を前にして、あるものは十字架につけよと、ある者は傍観者としてイエス殺害を企てる大きな声にのってしまったのです。イエスを十字架にかけることに、エルサレムにいる多くのユダヤ人は賛同しました。イエスが、ユダヤ人が大切にしている神殿を壊して三日で立て直すと語ったことに憤りを持ち、イエスが安息日に隣人の命を救うのを見て、律法違反と不信を抱いた人々です。イエスを十字架に追いやった者にとっては、ペテロの説教は耳障りな言葉でありました。しかし、彼らは「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」「あなたがたが十字架につけ、殺したイエスを神は主として、またメシアとなさったのです。」というペテロの説教に驚き、神様の働きを認めることができたのではないでしょうか。彼らは弁解するのではなく、悔い改めたのです。自分たちが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとした。この圧倒的な神様の働きの前に、人々は、これからどうしたらよいのか、と生きる方向転換を迫られました。悔い改め、洗礼を受けたのです。 マルチン・ルターは、試練に遭った時、白墨をとって机の上に「私はバプテスマを受けている」と書いたそうです。悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けたことを、ルターは思い起したのです。バプテスマは、自分の罪を認め、神様にたちかえることです。神様が私たちを捉え、私たちに愛を教え、神様の命を生きる者としたのです。私たちは「神と出会わされる場所」を与えられたのです。それが洗礼です。 私たちは白い紙の上に、何度、白墨で洗礼を受けたと書いても、書いても書ききれないでしょう。主は復活された。私たちのために命を落とし、復活したのです。私の、私たちの救い主となったのです。 「何をしたらよいのかわからない」迷い、戸惑い、不安に生きる、そんな人間を、神様はご自身の愛する者としたのです。 ペテロもそうでした。三度イエスを知らないと、イエスを裏切り、逃げた者です。パウロはキリスト者を迫害した者です。そのような人間を神様は用い、神様の業を務める者とさせたのです。 私たちは洗礼を受けました。しかし、いつまでたっても戸惑い、後ろを向きながらいきています。「わたしたちはどうしたらよいのか」との迷いを心の底に隠しつつ、日常を送っているのではないでしょうか。 決断を迫られる時、試練に遭遇するとき、私は洗礼を受けた、と心に確認させ、進みたいと思います。神様は私達を必要とされ、洗礼を受けさせ、キリストの体につらならせるのです。
by mizo_church
| 2015-07-04 18:53
| 礼拝メッセージ集
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