日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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ルカによる福音書6・14〜18
「人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。」と、 喜劇王のチャップリンは言っています。 安保関連法案が可決されました。私達は、さらに、聖書と深く結びつき、他者と生きるための想像力が試されていきます。今、一人一人は自問しています。「戦闘地に行くのは私ですか、友達の自衛官ですか、私の子どもや孫ですか」と。「戦闘地で、誤爆されるのは民家ですか、幼稚園や学校ですか、病院ですか。」と。鈍ってしまう日常に、生き生きと神様の教えを取り戻すために、神様は、私達に想像力を与えてくださいました。イエス様は、形だけ守ればいいようになってしまった律法を磨き直して、私達の前に譬え話を置かれ、私達の想像力を揺さぶるのです。 「不正な管理人」のたとえ話をされたイエス様は、「神と富とに仕えることはできない」と最後に言われました。ファリサイ派の人々の中には、律法を借用して、妻を家から追い出すことも公然と行われたそうです。女性は所有物だったのでしょうか。労働力か、欲望のはけ口だったのでしょうか。用済みになれば家を追われる女性達。お金を握る男が、神の名前で、自分たちの行為を正当化していたのです。イエス様は、これを姦淫にあたる罪と指摘されました。なぜなら、弱い立場の女性がモノ化されているからです。 今も日本の中で、多くの女性が夫や、元夫、恋人に危険な目に遭わされています。家の中に居場所のない女子高生も、止むなく路上にでて彷徨います。親切そうに寄ってくるJKビジネスは、若い女性をモノや商品として見ています。先進国の日本でありながら、「女子高生」はブランド名になっているそうです。しかし、売春防止法があり、何故、買春防止法がないのか。性を買う男を逃がして、売られた女に罪をきせるのか、これは緊急の課題です。聖書の世界でも深刻です。お金と女性。イエス様は彼らの欲望を、じっとご覧になっていました。ファリサイ派の人々は、重要なことを見落としています。相手をモノとして利用し、他者の尊厳を侵す人は、同時に自分の人間性を失うのです。昔、奴隷から解放されたイスラエルの民は「神以外を神としないこと」を第一にしたモーセの十戒をもらいました。その教えを歪曲して、彼ら自らが人間の自由を捨ててしまったのです。 一方、貧しい人達は、たとえ話を聞いて「小作人」とは、自分のことだと想像したでしょう。富む者に独占されていた神の国の入り口が、開いたのを感じたのです。イエス様は、新しい時代の到来をこう表現しました。「神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」人々は何千年もメシアを待ちのぞみ、その間、ゆがめられてしまった律法によって、貧しい人達は、クタクタに疲れ果て、飼う者のいない羊のように散らされていたのです。今や、イエス様に出会った者は、止められません。天の国へなだれこんでいきます。 私の次男は 1990年生まれ、自由 という名前です。ドイツ市民が東西を分断していたベルリンの壁を壊した新しい時代への突入と、キリストの自由をイメージして命名しました。自由とは、決して奪われてはいけないもの。自分の存在が大切にされ、認められ、生まれながらに与えられた賜物が尊重され、自分のことを自分で決められること。相手を愛し敬うこと。自由とされた者は、人間としての尊厳に満ち、他者に認められているからこそ 自由なのです。人と人を結びつけるものは、お金でも、モノでもありません。戦争で得られる安全でもありません。戦争は人間を利用し尽くし、私達を最もモノ化するのです。人と人とを結びつけるものは、私の、私達の自由と尊厳を大切に守り育てる、不断の営みから生まれていくでしょう。行動を伴う想像力。祈り労して、イエスさまの示された自由を、人と人との中に築くことを、再び始めていきましょう。
by mizo_church
| 2015-09-22 22:42
| 礼拝メッセージ集
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