日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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Ⅱペテロ1・16~21
イギリスがシリアに空爆をすることを議会で決議したことで、空爆に反対するデモにいたイギリス人の女性が、「これでは、シリア人の命は価値がなくイギリス人との命の重さが違いすぎる。」と語っていました。 ペテロの手紙に「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳の影響の中から、「これは私の愛する子。わたしの心に適う者」と、というような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。」とあります。弟子達は、イエスに同行して山に登り、「愛する子」とイエスに呼びかける神の声を一緒に聞いたのです。神様とイエスは「親と子」であることを三人の弟子達は悟るのです。 のちの世の教会はイエスを神の子であると信じ、イエスの教えを守り、イエスの教会につらなることを言い広めました。「神ともにいる。神の命にあずかる。」ことを、ペテロの手紙Ⅱはこのように語っています。「わたしたちは尊く素晴らしい約束を与えられています。それは、わたしたちがイエスによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようにするためである。」私達が聖霊と呼んでいる霊は、私たちに「神の子ども」であることを、教えています。 ある牧師の証があります。彼が教会に遣わされ数年たった頃、友人の紹介で、ホスピスに入院されたAさんをお見舞いに行った時の話です。ベッドの上のAさんは、すでに意識はなく、天に召される日が近づいていました。牧師が病室に入ると、突然、Aさんの夫が「祈ってください」と牧師に頼みました。牧師は、頭が真っ白になり、何を祈っていいか分からず、間近に死に赴く方の前で、自分の無力をいやというほど思い知らされたのです。結局、そのまま病室を飛び出してしまいました。道々、わが身のふがいなさを恥じ「祈ることさえ出来ない牧師なんて、こんな私がいたって何の役にもたたない」と思いつつ、今まで学んできた聖書の勉強、さらには教会で養った自信が揺らいでいきました。そのとき、「そうだ、それがお前だ。だからお前がいるじゃないか。」という声を聞いたそうです。そのとき、牧師は思いました。「私は弱い。でも私には復活の主が共におられる。死にも勝たれたお方が共におられるなら、私には恐ろしいものは何一つない。神様の前で、生きている人も、死にゆく人も大きな大差はない。私もあとからついてゆくにすぎない。」と。牧師は、神様から押し出されたようにAさんの病室に戻り、ご家族に先ほどの失礼を詫び、お祈りを捧げたそうです。情けない話のようですが、一人の人間の生と死に直面し、命の前でたじろぐ牧師の姿を通して、私も又、命の存在の大きさを教えられました。 神様と私達との関係は、生きているときも肉体が消滅した後も続きます。私達が神の子とされたのは、業績や資質によるのではなく、信仰によるからです。昔、旧約聖書で約束されたイスラエルの民は小さな部族であるがゆえに、選ばれたのです。これが神様の愛の選びです。弱い国の者の命ゆえに、神様は顧みられるのです。 私たちも下を向き、涙をこらえ、疲れ、破れの多い者です。しかし神様は、あなたはそのままでいいよ、その姿で私のところに来なさい、と私達を招いておられます。そのような私たちが聖書の御言葉を聞きます。荘厳な栄光の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」と言われた神の子イエスの光が、私達にまで及びます。心軽やかに、神様が招きたもう人生を、私達は進み出すことができまように。
by mizo_church
| 2015-12-30 22:25
| 礼拝メッセージ集
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