日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「神の国の豊か」ヨブ記38・1~11/ルカによる福音書12・13~21『有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである』(ルカ12・15) <神のものである命>今朝のルカによる福音書の15節においてイエスは「人の命は財産によってどうすることもできない」と語られました。ここから想わされることは、どんな人も等しく、自分の命を自分の想いのままに生きながらえさせることはできない、ということです。そして今日のこの箇所をとおして聖書は、この地上での命を、神の所有物と考えている、ということです。この私の命もまた、私のものなのではなく神のものであり、神から、ある時間、この私にゆだねられたものなのだ、と。だからそれはまたいずれ、神におかえししなければならないものなのだ、と…。確かにこんにち、医療技術の発達にともなって、今まで治療がむずかしかった病が治療できるようになってきました。私達の命に、次々と新しい可能性がひらかれてきています。それは本当にすばらしいことだと思います。また今はまだ、治らない、と言われている病がいつか、医療技術の進歩によって治るようになったらどんなにいいだろうか、とも思います。病の痛みや苦しみ、それに伴う生活上の不自由さを見守り続ける家族にとって、それは正直切実な願いです。しかしその一方で、どんどん医療技術が発達して、人が、人の命に対して傲慢になっていくことにも恐れを感じなければならないと思うのです。人が人の命を操作できる、という考えがひろがっていくならば、この世界は恐ろしいことになってしまうでしょう。 <私にゆだねられた命>だからこそ、この私の命もまた、私のものなのではなく神のものであり、神からある時間、この私にゆだねられたものなのだ、と、だからそれはまたいずれ、神におかえししなければならないものなのだ、と…、こういう考え方を前提におくことが、私達人間を、命に対する傲慢さから守ることになるのだと思います。そう、私達の、この地上での命は神のものであり、私達は、ある一定の時間、神からその命をゆだねられて、今、ここに存在しているのです。いずれ、この命をまた神におかえしするまでの間、託された命を、神の国のために用いていくことが、私達の使命なのです。そして、そのような生き方を志していく時に、私達は神との一体感を感じ、信仰者としての喜びに満たされるのです。 <ゆだねられた使命のままに>私達は「自分の命のことばかりを心配し思い煩うのではなく何よりもまず神の国を求めて生き、その豊かさにあずかっていきなさい」と、それが私達の自然な生き方だと言われているのではないでしょうか。確かに私達のこの国の現状は、神の国とはほど遠いものだと言わざるをえません。ますます遠ざかっているかのように見える時もあるほどです。けれども、もう一度心を静かにして目を閉じて、ゆだねられている命の鼓動に耳を澄ませるならば、それでも…、現状が神の国からますます遠ざかっているかのように見えようとも…、このゆだねられた限られた命を、ゆだねられた使命のままに使い切ることが、自らにとっての幸せでもある、と思えてくるのです。これから先、どんなに医療が進歩しても、誰にでも等しく、いつかは訪れる死を、私達もまた受け入れなければなりません。それがいつなのかは誰にもわからない…、どんなに財をなしても、それを自由に自分で延期させたりすることはできない…。いつか、必ずやってくる死…、それまで、託された命を、ゆだねられた命を、あなたはどう生きるのか、どう使うのかと、今朝、私達一人一人が、主から改めて問われているのだと思います。
by mizo_church
| 2006-10-29 11:30
| 礼拝メッセージ集
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