日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「その時、救い主が来る」エレミヤ33・14~16/ルカによる福音書21・25~36『人の子の前に立つことができるようにいつも目を覚まして祈りなさい』(ルカ21・36) <祈れない日々>今朝のルカによる福音書には終末の時の、しるし、について記されています。そしてそのような、しるしを見たなら、いつも目覚めて祈っていなさい、と言われています。しかし、このような祈りの大切さを承知しつつも私たちの日常は本当に忙しく、十分に祈る時間がもてない、という悩みを誰もが抱えている…、また、もしかしたら私たちは祈ることによって何かが変わるとか、何か新しい展開が目の前に拓けてくるとか、そういうふうには思えないことの方が多いのかもしれません。祈るよりも先に…、あるいは少し祈ったらすぐに行動しはじめなければ、とても時間が足りない、間に合わない、というふうに考えてしまうのではないでしょうか。それほど私たちの日常は忙しいものであると、言わざるをえないのかもしれません。 <主イエスのとりなし>でも、今日の箇所に続く37節を見ておきたいと思いますが、そこには、「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」とあります。この、「オリーブ畑」と呼ばれる山は、イエスの弟子たちの賛美の場所であり、イエスご自身の真剣な祈りの場でもあった…、と言われています。22章の39節以下を見るとイエスはいつもこのオリーブ山で真剣に祈っていた…、そして、逮捕される直前も血の滴るような汗を流して切に祈られた…、と記されています。しかし弟子たちは悲しみの果てに眠りこんでしまっていた…、目覚めて祈っていることができなかった、とあります。ここに、私たち人間の弱さと、しかしその弱さを承知して、とりなしの祈りと行動をし続けてくださる主イエスの深い憐れみ・愛が証されています。イエスの降誕は、「神の子」が「人の子」としてこの世に現れてくださった、ということです。もっと端的に表現するならばそれは、神がイエスキリストとなってこの世に現れてくださった、ということなのです。 <再びイエスキリストとなって>ミシェルクオストというカトリックの司祭は、このことを次のように語っています。「神はいわれる。わたしは人間がいるところ、どこにでもいる。きみらを救おうとして、きみらの中にすべりこんだあの時以来」。このように彼は、神がイエスキリストとなって、この世に現れてくださった次第を、神が人間を救おうとして、人間の中にすべりこんだ出来事と捉えています。イエスキリストが誕生した日は、神が、人間を一つにしようと、ついに自らとびこんだ日だ、と言うのです。しかし人間を一つにするという神のご計画は未だに達成されていない…、とミシェルクオストは語ります。「ああ闘争の世界よ、おびただしい十字架に、人間は毎日わたしをはりつけにする。きみらはゴルゴタの十字架だけで満足しなかったのか」、神はそう語っておられるのではないかと…。彼はこの文章を1972年に発表しました。それから約30年以上たって、しかし今もなお神の名を利用して戦いが続けられ、互いにひきさくことによって神をひきさき、神を殺している…、そのような状況がなお続いている2006年に、だからこそ神は再びイエスキリストとなって私たち一人一人の心の中に宿ってくださろうとしているのです。私たちもまた、あの弟子たちのように、悲しみの果てにすぐに眠ってしまうかもしれません。それでも、目を覚まして祈ろうとつとめつつ、神が、再びイエスキリストとなって、私たち一人一人の心の中に宿ってくださる日を待ち望みたいと思います。
by mizo_church
| 2006-12-03 11:00
| 礼拝メッセージ集
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