日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「主イエスの楽園」出サムエル記下5・1~5/ルカによる福音書23・35~43『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』(ルカ23・35) 「まず自分を救え」て>)今朝、私たちに与えられたルカによる福音書の23章35節以下…、ここに登場してくる多くの人たちは、イエスに対して非常に否定的です。そして今日のこの35節以下には「自分自身を救え」という言葉がずいぶん出てきます。いずれもイエスに対して投げつけられた言葉なのですが…、私は、この議員たちも、兵士たちも、犯罪人の一人も、つまるところ、常に自分のことを脇において、隣人の痛み苦しみに寄り添い続けようとするイエスに、激しいいらだちを覚えていたのだと思います。この議員たち、兵士たち、そして犯罪人の一人、の生き方は、おそらく常にまず自分を見つめる…、そして自分の利益を守る…、獲得する、というものであったのでしょう。そしてそれは何も特別なことではなく、むしろ常識的な、当たり前のことであった、と言えるでしょう。誰もがそうやって自分を見つめ、自分を守り、自分の力で自分を救って必死に生きていた…、だから、常に自分のことを脇においてこんな善意に満ちた、愛に満ちた生き方を見せつけられてしまったこの人たちは、イエスがいよいよ十字架につけられようとした時、言ったのです。「まず、自分を救えよ」と。そんなきれいごとでは生きてはいけないはずだ…、俺たちと同じようにちゃんと「まず、自分自身を救え」…、メシアだと言うなら、十字架を前にしたこの土壇場で、そうできるはずだ、やって見せてみろ…、それが、彼らの言い分だったのでしょう。 <自分を救わなかったイエス>しかし、結局ここでイエスは、ご自身を救うことをされませんでした。そしてイエスは最後まで、そうされなかったのです。ご自身を救うことなくそのまま、十字架の上で息を引き取られるのです。44節以降にそのことが記されています。そして十字架につけられたイエスの両側には、同じように十字架につけられた犯罪人がいました。その犯罪人の一人は、イエスをののしったけれども、もう一人はイエスに、ある願いを託しました。それは42節に記されてありますが「あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」というものでした。その願いに対してイエスは43節において「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とお答えになりました。 <最期にイエスを慰め励ました人>この犯罪人の一人もまた、かつてはこの時代のいわゆる常識的な価値観に束縛されまた抑圧されて、生きていたのかもしれません。しかし屈折してしまった生涯の果てに…、主イエスと出会ったのです。主イエスを認め主イエスから認められ、祝福を約束されて平安を得るのです。そしてまたこの人はイエスの地上での最後の理解者となったのです。嘲りと蔑みの声がうずまくなか一番近いところでイエスに理解を示し、その言葉がイエスを慰め励ましたであろうことは想像にかたくありません。そして確かにイエスを十字架へと排除しようとした議員たち、兵士たち、そして犯罪人の一人、彼らもまたさまざまな葛藤を抱えて今はこうせざるをえない…、ということであったのかもしれません。また私たちも同じような葛藤を抱えることがあるかもしれないとも思います。しかしそんな時こそ私たちはイエスの地上での最後の理解者となった人の言葉を、自らのことばとしたいと思うのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。すると主は、きっとこう答えてくださるでしょう。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
by mizo_church
| 2006-11-26 11:03
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