日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「低みに生まれた愛」イザヤ書11章1~10節 ルカ福音書1章26~38節『お言葉どおり、この身になりますように』(ルカ1・38) <強いられた告白>あなたは救い主イエスの母となる、という天使の予告に応答したこのマリアの言葉…、「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉、これは、マリアの信仰告白である、と、言われてきました。しかし、この箇所を繰り返し読み返してみると、実はそうではなかったのではないか…、この言葉は半ば強いられてマリアがした告白なのではないか、とも思えるのです。男の人を知らないのに身ごもって男の子を産む…、そしてその子はいと高き方の子と呼ばれるようになる…、確かにそうだと思います。「おめでとう」と言われようが「恵まれた方」と言われようが、このような事が本当に起こるとすればそれは、ヨセフとの結婚をひかえたマリアにとって「迷惑」としか言いようのない出来事だったのではないでしょうか。そしてマリアはこの後反発し、それに対する天使の力強い断言があり、そして思わずその勢いに押されてマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と…、告白したのではないでしょうか。しかしこの後、さらにマリアは葛藤し模索しそしてようやく46節以下において心からの信仰告白へと至るのです。 <共にうずくまる主>今朝は、この後、洗礼式が行われます。キリスト者にとって洗礼はゴールではなくスタートだと…、よく言われる言葉ですが、本当にそうだと思います。洗礼はゴールではなくスタート…、神はしばしば、マリアにされたような…、私達人間には不可解な、にわかには信じがたい御業を起こされます。なぜ神は、こんな事を言われるのか…、されるのか…、と、とまどうことや、できればこのことには関わりたくない、ということや、場合によっては怒りたくなるようなこともあるかもしれません。神とはいったいどういう方なのか…、神がわからなくなる、見えなくなることもあるのでしょう。しかしひとつ言えることは、そのような様々な葛藤なしに、私達は神との深い出会いやイエスとの深い交わりを味わうことは決してできない、ということです。自分に与えられた課題の重さに、もう一歩も前に進めない、という想いのなかでうずくまってしまうこともあるいはあるかもしれません。しかし、そのような時にこそ、主イエスは私達一人一人の傍らにいて、共にうずくまってくださり、言葉にならない私達のうめきを祈りとして受けとめ、とりなしてくださいます。そのような方が、私達一人一人の傍らに来てくださった…、それが私達に与えられるクリスマスの喜びなのです。 <「飼い葉桶」からのスタート>私達の主イエスは、喜びが満ちているところにではなく、悲しみが満ちているところに小さな希望の光を灯すために来てくださいました。そこから全ての人を救う歩みを始められたのです。そのようなイエスの御生涯のスタートが飼い葉桶という場所だったのは、非常に象徴的なことだと思います。主は神の身分でありながらそれに固執することなくこの地上のもっとも低き、暗きところに来てくださいました。最後にもう一度、とまどい、うたがい、拒絶しつつも葛藤したからこそ最後に心からの賛美をささげることのできたマリアの告白に耳を傾けたいと思います。1章51節以下です。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」。このような「低みに生まれた愛」・イエスが、私達と共にいてくださる、私達と共に歩んでくださる、それが今日、私達に与えられた、「よき知らせ」なのです。
by mizo_church
| 2006-12-24 11:30
| 礼拝メッセージ集
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