日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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「喜びなさい」ヨシュア記2章8~14節 フィリピの信徒への手紙4章1~7節『主において常に喜びなさい』(フィリピ4・4) <「主において喜ぶ」とは>今朝のフィリピ書にある「主において喜ぶ」とはいったいどうすることなのでしょうか。6節以下を見ますと「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」とあります。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあります。現代に生きる私たちばかりではなく、当時のフィリピの人達にもまた、多くの思い煩いがあっただろうことが想像されます。共に生き、宣教していくことにおいても数々の失敗があり、当然思い煩うことも多かっただろうと思います。しかしだからこそここで、思い煩うな、と‥、全てを神にうち明け、祈りなさい、と言われているのだろうと思います。主はすぐ近くにおられるのだから、全てを主にうち明けなさい、と。共に生きることにおいて、また、共に宣教していくことにおいて、誰にも限界がある‥、その限界を超えていることについては、祈るしか、ゆだねるしかない、ということなのだろうと思います。 <望み見て喜ぶ>たとえば、困難を抱えて苦しむ一人の人を、何とか助けたいと思っても、自らの限界のためにどうすることもできない場合があります。当然、一人の人の力には限界があります。そしてその限界はあまりにも小さいものなのかもしれません。しかしだからこそ、その小さな限界を持ったたくさんの人達の力が集められることが必要なのだと思います。一人一人の小さな限界がたくさん寄せ集められてやっと一人の人を十分に援助することが可能になる‥ということなのではないでしょうか。一人一人は、神様がそのような人をあちこちでおこしてくださることを祈りつつ、自らの限界を見極めて仕え、あとは祈ってゆだねる、ということなのではないでしょうか。その時初めて、自らの無力さ、小ささに絶望することなく、希望をもって、喜びをもって、仕えて生きることが可能になるのではないでしょうか。そしてこれが、「主において喜ぶ」ということなのではないかと思うのです。このように「主において常に喜びなさい」とは、主が共にいてくださるから‥、そして導いてくださるから、今はどんなに「喜び」からほど遠い現状であっても必ずよい方向に導かれる時を信じて‥、その時のことを祈りのなかで望み見て、前もって喜びなさい、ということなのではないでしょうか。そして、そのように主イエスに常に全てを打ち明けて、ゆだねて歩む人は、次第に主に深く捉えられて、主の歩みにならう生涯へと導かれる‥。そしてフィリピ書の3章13節にあるように、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神の国という目標を目指してひたすら走る」人生へと導かれるのです。 <全てをゆだねて喜ぶ>「主において喜ぶ生活」、それは、思い煩いのない生活なのではありません。それはむしろ、様々な思い煩いが起こってくるなか、その都度、全てを主にゆだねて、祈りつくしていく生活のことなのです。そして今はまだ何も解決していないも関わらず、必ず主が共に働いてくださり、よき方向に導いてくださることを信じて祈りつつ、前もって喜ぶ生活のことなのです。あまりにも小さな限界を抱えてたたずむ私たち一人一人の傍らに、主が立ってくださり、限りない慰めと励ましをいただくことができる‥。そのような幸いが与えられていることに感謝しつつ、この週も、怒り悲しみ、思い煩いの多い日常のすべてを神にうち明けつつ、主において喜びながら歩んでいきたいと思います。
by mizo_church
| 2007-07-22 12:57
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