日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
カテゴリ
以前の記事
検索
その他のジャンル
画像一覧
|
「神の僕として」 牧師 竹島 敏
エレミヤ50章4—7節 ペトロの手紙一2章11—17節 『自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい』(ペトロ一2・16) (どのように従うのか)ペトロの手紙の11節から17節までを繰り返し読んでみると、そこで言われていることの中心は、16節の最後に記されているように「神の僕として行動する」ということなのだとわかってくる。具体的には15節にあるように「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じる」ということだ。そのためにどのような仕方で、人間の立てたこの世の制度に従っていくべきか、どのように、この世の主人に服従しつつ、真の主イエスを証する業を積み重ねていくべきかが語られているのだ。 (主人を選ぶ)考えてみれば私たちは常に、何かの、また、誰かの僕として生きているというべきなのではないだろうか。「いや、そんなことはない」と言い張る人達も意識していないだけで、実際には、お金や、物や、自分の欲求欲望の僕になっていたりするのではないだろうか。だとすれば、誰の‥、何の、僕として生きていくのか、という選択が重要になってくるのではないだろうか。本当にその僕として生きるに値する主人を、私たちは選択しなければならないのだ。聖書は、神を‥、イエスキリストを主人として生きる道を私たちにすすめている。それはこの世から遊離する生き方ではなく、また、むやみに対立する生き方でもないと‥、それは、「あなたがたは地の塩である」と主イエスが宣言されたように、塩のようにこの世にとけこみながら、その力を発揮して、よい味付けをしたり清めたりする、そのような生き方であると言われているのだ。確かに私たち一人一人の力は、まことに小さなものであると言わざるをえない。ますます深い闇に包まれようとしているかのようなこの世界の状況を、自分たちに与えられた力で打開できるなどと考えられないのは、むしろ、当然と言えば当然のことなのだ。しかし主イエスは常に、そのような私たちに先立って働いておられる、ということを確信することができたなら、事情は変わってくるのではないだろうか。私たちに先立って働いておられる主の業を知り、そこに仕える時に、主に対する確信は深められていくのだろうと思う。主の業を知りそこに仕えるとは、主の正義、つまり、主イエスが命をかけて貫こうとされた神の正義に仕えることである。 (黙想・祈り・服従)私たちの身近な日常において、たとえば職場において、家庭において、また学校などにおいて、神の正義は貫かれているだろうか。仕事や、様々な交わりをすすめていくなかで、たとえ自分自身のことではなくても、心が痛むことや、憤りを感じることが数多くあるのではないだろうか。ささいなことでも、その一つ一つに心をとめ、神の正義が取り戻されるために、今、主イエスは、この自分に先立ってどのような働きをしておられるのか黙想し、祈ること、そして、その主の御業に仕えるように行動していくこと‥、それが、私たちの日常において主を証するということなのであり、神の僕として生きるということなのではないだろうか。そのような、極めて日常的なこと一つ一つを通して私たちは、地の塩としてこの世に従属し、とけこみつつ、神の正義を証し、神の僕として生きていくのだ。どんな時も決して希望を捨て去らず、主イエスが常に先立って歩んでくださっていることを信じて‥。私たち一人一人の内側に聖霊として住まいつつ、御自身の業と私たちそれぞれがなすべき業を示しつづけ呼びかけ続けてくださっている主イエスの声に耳をすませ、その声に、言葉に、勇気を出して従っていく私たちでありたいと思う。
by mizo_church
| 2008-09-12 14:46
| 礼拝メッセージ集
|
ファン申請 |
||