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「信仰を言い表す」 牧師 竹島 敏
箴言8章22—31節 マタイ10章26—33節 『人々を恐れてはならない』 (マタイ10・26) (神の愛と正義に仕える)今朝の26節において、「人々を恐れてはならない」と主は語られた。「人々」とは、おもに弟子たちを迫害するファリサイ派の人達のことだった。ファリサイ派の人達は、いかなる場合も律法を優先させるという律法主義に陥り、神の愛や正義という観点から律法の再解釈を行ったイエスと対立する。イエスの弟子たちもまた、当然同じ立場にいる者として、ファリサイ派の人達から迫害を受け、権力者側の手に引き渡されそうになっていく。しかしここで主イエスは、そのようなファリサイ派の人達を恐れるな、と弟子たちに告げたのだった。どんな迫害を受けようとも、神の愛と正義にもとづいて、ひたすら神の国を目指して歩んでいくなら、その歩みそのものが、ファリサイ派の人達の過ちや偽善を必ず暴露することになっていく‥だからどんな時も恐れずに、神の愛と正義に仕え続けていきなさいと、主イエスは弟子たちを励ましたのであった。 (心と体をかけた「信仰の言い表し」)そして32節以下においては信仰を言い表すとはどういうことなのかが明確に告げられている。それは人々の前で「自分はあのイエスの仲間だと言い表すこと」と告げられている。しかし26節からこのように見てくると「信仰を言い表す」とは「イエスを私の主として信じます」という告白のことだけではないとわかってくる。むしろその告白からスタートして主に導かれて一歩一歩、神の国への歩みをすすめていくなかでなされる告白こそがその人の心と体をかけた「信仰の言い表し」になっていくのだと思う。そのような自らの心と体をかけた「信仰の言い表し」をしていく時にこそ主もまた、「あなたは私の仲間だ」と「神の国の仲間だ」と、応えてくださるのではないかと思うのだ。かつて、弟子のペトロは、イエスが十字架にかけられようとした時、イエスを三度否定した。「そんな人は知りません」と否定した。この時「そうです、私はあの人の仲間です」とペトロが言い表していたなら、間違いなくペトロも捕らえられ、肉体的にも精神的にもひどい仕打ちを受けることになっていたのではないだろうか。つまり、ここで聖書が私たちに告げようとしているのは、いつの時代でも、「私はあのイエスの仲間です」と本気で言い表すことは常に、肉体的な、また、精神的な迫害の危険と隣り合わせになる、ということなのではないだろうか。 (問われている私たち)カトリックの森一弘司教は「歴史の現実は、残念ながら強者がつくりあげてきた」と語っている。「強者には、弱者の悲しみ・痛みを理解する心はなく、強者の物欲、支配欲、野心、野望が歴史を動かし、弱い人々の願望、尊厳を無視し、一方的に踏みにじっていく」と。そして「強者がつくる歴史の底辺で生きる人々は、どこからも希望を見いだすことができず、自分たちの状況を理解し、希望を与えてくれる頼れるリーダーを切に求める」、「そんな人々が満ちあふれる社会の中にイエスが登場したのだ」、と語っている。私たちもまた、今朝の聖書のイエスの言葉を通して問われているのではないだろうか。「あなたは、人々の前で、真実、信仰の言い表しをしていますか」と。「あなたは、どのようなかたちで、『私はイエスの仲間である』、『イエスの神の国の仲間である』と、告白していますか」と。イエスが、そこをめざして歩み続けた神の国に向かって、私たちもまた歩んでまいりたいと思う。それが、具体的にイエスの仲間であると言い表すことになっていくと信じて、たとえ、様々な形で迫害を受けることになろうとも、それぞれが遣わされている場において小さな積み重ねを続けていきたいと思う。
by mizo_church
| 2008-12-14 22:59
| 礼拝メッセージ集
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