日本キリスト教団 溝ノ口教会愛があります。笑顔があります。 |
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出エジプト記2・1〜10
エジプトの王女は男の子を水から引き上げました。いくつもの救いの御業が重なってモーセは命拾いします。生まれはイスラエル人、育ちはエジプト人。しかし、2つの文化をもつ人達の葛藤は時として深刻です。 私達の婦人会でも、「日本人であってキリスト者である」ことをテーマに分かち合いをしたことがありました。家族の中で自分だけキリスト者であるということ、地域や親戚との付き合い、礼拝を守り続けることの困難とそれにまさる意味を、一人一人が探っているのだと思います。 カナダ合同教会 牧師、カナダ先住民のメロディー・マッケラムさんは、小さい時に白人のクリスチャンホームに引き取られて育ちました。元々、北アメリカの地は先住民族の土地であり、ヨーロッパ人が北アメリカに渡って来ました。19世紀からカナダ政府は教会と協力して子ども達を先住民の親から離し、彼らの言葉も生活習慣も否定して西洋文化とキリスト教を教えヨーロッパ人のようになることを強制したのです。すっかり西洋化した彼らが大人になって先住民居留区に帰ると、まるで自分が外国人になってしまった感じをうけ、居場所を失ってしまいました。メロディーさんも、麻薬とアルコールで苦しみ自信を持てなくなりました。苦悩の末、先住民の文化、霊性を学ぶようになり、実の親とも会い、ようやく先住民の神学校にたどり着いたのでした。この学校では、先住民の伝統に従って輪になって礼拝し、年に一度4日間断食して、森に入り一人で過ごします。自分の中の奥深い部分を見つめると、神様に愛されている自分を感じられたそうです。「自分が誰かを知る必要があったのです。クリスチャンである自分と先住民族である自分。どちらも私であり、どちらも大事。どちらかを否定しなくてもいい、この二つを分けて考えなくてよいと分かった時、初めて私はありのままの自分になれたのです。」とメロディーさんは語ります。1986年、カナダ合同教会は、先住民の人々に対し、過去の歴史を謝罪しました。「私達は西洋文化と西洋の考え方をキリストの福音の深さ、広さ、高さ、長さと間違えて、あなたがたに押し付けました。あなた方を私達と同じようにしようとすることによって、あなた方を創り支えた神のビジョンを破壊することに手助けをしました。それは、私達双方にとって不幸なことであり、それによって私達が創造主に似せられたものでなく、私達によって、創造主がねじられ、ゆがめられています。どうか、私達を許し、御霊によって私達と共に歩んでください。 カナダ合同教会」 モーセも苦悩を通して、良い奉仕に仕える器へと整えられていきます。 パロの娘の子と呼ばれることを拒否し、同胞からも拒まれ、異国の地に逃げたモーセは、孤独の中で自分の進む道を問い続けました。モーセはホレブの山で神様に呼ばれます。「私は必ずあなたと共にいる。」と。所属を失っていたモーセは、やっと錨を下ろせる神に見いだされたのです。モーセは、奴隷であるイスラエル人をエジプトから導きだし、新しい共同体を作るビジョン、神の救いの約束に参与していくようになります。 私達にも、神に愛されている子どもとしての、人々と分かち合うための賜物が与えられています。苦しんだ分だけ、私達の可能性は広がっています。人生の旅路の最後の日まで、私達は、隣人を尊重し、誇りと喜びのうちに歩み、神と共に霊的に成長していけます。神に愛され、誰にも隷属しない、ありのままのじぶんを受け入れるところまで到達することが許されているのです。キリスト者のゴールは神の家です。救いの約束を望みつつ、旅をつづけましょう。 #
by mizo_church
| 2015-11-19 20:25
| 礼拝メッセージ集
ヨハネによる福音書5・1~15
イエスについてきた5千人の人を見て、弟子たちは、これからどうなるのか不安になりました。夕食の時間も近づき、何を食べるのか心配になったのでしょう。弟子達の心配がイエスにも伝わるのです。弟子達の困った様子を感じた人の中には、わずかな食料を持っている大人、子どもがいたのではないでしょうか。そうであるなら彼らは食料を持っていると、なぜ、言わなかったのでしょうか、疑問になります。もったいないから食料を出そうとしなかったのか。おそらく「私のもっている物はわずかな量だから」と考えたのではないでしょうか。というのは、少年が持っている5つのパンと2匹の魚を見て、弟子のアンデレは「こんなわずかなもので何になるでしょう」(6章9節)とイエス様に語っているからです。たしかに、少年のお弁当は、5千人の食料としては僅かです。しかし、イエスさまは、この捧げ物を、価値あるものとして扱ってくださいました。しばしば、私たちも経験します。自分の持っている物を小さく、小さく考える。物があふれている時代だからこそ、使い捨て時代と呼ばれる現代だから、そのように考えがちです。与えられている物の価値を低くみなしてしまいます。 しかし、始まりはいつも、今持っている全ての「わずかな」「小さな物」を隣人のために用いることから始まるのです。 ヨハネによる福音書6:11節に、イエスは少年が差し出したパンと魚に感謝の祈りを捧げています。私たちも食事の前に感謝の祈りをします。それは、「作ってくれた方にありがとう」というためではなく、自分たちの前に備えてある食事は、「神様が与えてくださったから、神様ありがとう」、と感謝するためです。 私達は、所有物の主人であっても、私達の命は神様のものです。全ては、神様が私達に備えて下さる恵みなのです。そう考えるのが信仰です。 私達自身、自分たちの存在も、神から与えられたのです。生きるように命を与えられたのです。こんな小さな人間にどれだけの力があるのか、どれだけ役にたつのか、と私達は人間的な尺度で自分を計りがちですが、神様は違います。神様は、私達が小さな人間にもかかわらず、この存在に命の息を吹き込んで下さったのです。 私はさきほど読んだ「パンとお魚」のかみしばいを通して、新しい発見をしました。それは、イエス様を喜ばせようとした少年の姿です。少年は5千人を喜ばせようとしてのではなく、一人のお方を喜ばせようとしたのです。少年はイエス様に食べていただきたい、一人のお方に喜んでほしい、と考えました。イエスさまを助け、イエス様が喜んでくださる姿を見たかったのです。そのことが、奇跡を呼び起こし、5千人を満腹させたのです。 この少年のように、目の前にいる一人の人が喜ぶ姿を励みに生きたいと願います。それは家族であったり、隣人と呼ばれる人たちであったり、目の前にいる方です。目の前にいた人間を喜ばすこと、それが神様の奇跡につながるのです。パン5つと魚2匹を差し出した少年は、自分も満腹しただけでなく、霊的にも満たされたのです。少年はイエス様によって人を幸せにするという喜び、共に喜ぶ幸いを味わったのです。 #
by mizo_church
| 2015-11-19 20:23
| 礼拝メッセージ集
創世記1・5 ヨハネによる福音書1・1〜14
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」言葉とはイエス・キリストのことです。ヨハネは、創世記1章「初めに、神は天と地を創造された。」を意識して福音書の冒頭を書いたことが伺われます。「はじめに」力強い言葉です。何故なら、創造物語は、古代イスラエルの民の精一杯の信仰告白だからです。 秋が深まり、私が住んでいた北海道、興部ではサケが生まれた川に帰って来る時期です。我が家の子ども達が卒園した幼稚園は、川のすぐそばを流れています。私は、そこではじめてサケの大群が、川をのぼっていくのを見ました。サケ達は流れに負けまいと、尾びれを必死に動かながら、前に出る力を溜め込んで進もうとしています。私の足下の浅瀬に来てしまったサケは、背中を半分見せ、川底の砂利を蹴りながら進みます。子孫を残そうと取り憑かれたように、一心に。傷だらけになっても上流に上るサケを見て、私は、一歩も手出しできずにいました。神の創られた自然、神の手仕事の前で、人間がそれを操作したり、命の流れを早めたり押しとどませることはできないのだと悟った時間でした。先住民族アイヌは、産卵した後の、体力を使い果たしたサケを、越冬用にたくさん取ったそうです。朽ちていくばかりのサケなら、いくらとっても次世代の数は減らず、おまけに油の抜けたサケは保存用に適していたからです。人間も命の一部をいただきます。命は相互に繫がり合い、大きな時間の循環の中で私達も生かされるのを感じた一場面でした。 先日、ベラルーシのドキュメンタリー作家 スベトラーナ・アレクシェービッチが、ノーベル文学賞を受賞しました。1997年、「チェルノブイリの祈り」を発表しました。チェルノブイリ原発事故後、アレクシェービッチは、あらゆる種類の人々に会いに行き、真剣に考えている人々の言葉を集めていきました。原発労働者、科学者、元党官僚、医者、兵士、農民、病気の子を持つ母親、移住者、汚染地域に残る老女。神を信じている人、いない人。大地や水だけの問題だけでない。この世界をどう見たらいいのか、未来にどう生きたらいいのか、という一大事です。 (化学技師の証言)ぼくらは表土をはがし、じゅうたんのように大きくロール状にくるくる巻いた。草や花や根っこがついたままの緑の芝生を甲虫も、クモも、ミミズもくっつけたままで。こんなことは狂った人間のやることです。大地をすっかりはぎとっちゃいけない、大地からすべての生き物を奪っちゃいけないんです。 (汚染地域に残る老女)「村の衆がいなくなって7年間、一人でくらしております。・・・この世で、一番公平なものは死です。まだお金でケリをつけた者はおりません。大地はみなを受け入れてくれる。善人も、悪人も、罪深い者も。この世にこれ以上、公平なものはありません。良心に従って生きてきた。身を粉にして働いて来た。ところが、この公平なものにありつけなかった。私の分が来る前に私の分がなくなっちゃったんです。若い人も死ぬかもしれんが、老いぼれは死ななきゃならん。・・・ 偉い学者が来て、薪を洗って使えと演説しました。 自分の畑でとれたジャガイモでずっと生きて来たのに、今度は食べちゃならんだと!シーツ、カーテンを洗い流せと、家の中にあるのに!タンスや長持ちの中に入っているのに!・・・ 墓地にいくんですよ。この世にいる人間とも、いない人間とも話ができるよ。わたしにとっては同じ事。とても悲しいときには、どちらの声も聞こえるんです。」 (元党第1書記)「信じていたんです。高い理想を信じていた。勝利を!チェルノブイリにも勝つんだと。暴走する原子炉を鎮めようとする英雄的な闘いを。・・・私の孫は何故・・・ 孫は病気なんです。当時、原子力発電所は未来だったのです。」 伝える言葉がみつからない、本や過去の戦争の経験も役に立たない。 輝く大地を失った人々の苦悩に、今、フクシマを経験した私達の姿も重なっていきます。 今、この時代に、最もふさわしいのは、私達が初めの御言葉に立ち返ることでしょう。「初めに、神は天と地を創造された。」この信仰の出発点に戻ることでしょう。昔、古代イスラエルの人々は、国が滅亡した時代に、連行されたバビロンの地で創世記を編纂しました。奴隷同然のイスラエル人は、荘厳なバビロンの神々の祭りの前で、卑屈にならなかったでしょうか。怯えなかったでしょうか。彼らの世界がこわれかけ、崖っぷちに立ったところから、命の源泉である神に信仰をあらわしたのです。罪を悔い改め、力強く、第一義に、神を表現したのです。 神様は、光あれ、と命じ、光と闇を区別されました。光は良きものなり、闇に打ち勝ちたい光として、長い夜を絶え抜く光として輝いています。ヨハネは、世に来る光がイエス・キリストであることを指し示します。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」ヨハネ1・9 興部川の隣の幼稚園では、今年の春も、園児たち一人ずつは、 紙コップにサケの稚魚を入れて、川へ放流したそうです。サケは、自分を育んだ川をちゃんと覚えていて、産卵するときにもどってくるのです。命は世代が途切れず古代連綿と続いてきたことを、子ども達は、そっと感じ取るでしょう。いつか大人になったとき、神の時間の中で、生かされていることを理解できるようになるかもしれません。私達は、この世界を光の道へと回復するために、神様から期待されています。 全ての生き物の調和する世界を回復させるために、弱い者達が、さらに貧しさと暴力と虚偽で脅かされないように、愛と公平と平和が神の御名によって打ち立てられるように。 私達の賜物に応じて、祈り、それぞれが、神の働きに具体的に参与していけますように、光の道を探していきましょう。 暗闇を絶えつつ、イエス・キリストを待ち望んで過ごしましょう。 #
by mizo_church
| 2015-10-29 22:08
| 礼拝メッセージ集
ヨナ書1章1節~2章節
預言者であるアミタイの子ヨナは、都ニネベに行き、悪に支配されている民を悔い改めるよう、神からの命令が下りました。しかし、ヨナは神の命令に従わず、ニネベとは反対のタルシシュに向かう船に乗りこみました。なぜヨナは神に背いたのでしょうか。 ヨナ書1章9節において、ヨナは「わたしはヘブライ人だ。」と述べます。「ヘブライ人」というのは、自らを外国人と区別して呼ぶ場合などに用いられます。このヨナの言い回しから、ヨナはヘブライ人であることを誇っていました。民族主義的傾向を持つヨナは、ニネベの民を偏見の目で見ていたことは明らかです。ヨナの性格の根っこを見出そうとすれば、自らの非を認めることが出来ない、また、自己と他者との区別が出来ず、他者に対する思いやりというものが未発達であることがわかります。このような性格の人たちにとって、自己を否定されたり、叱責されるということが、一番つらいものです。そのため、そのつらさを避ける為に、強がってみたり、居直ったりして、逆に攻撃的な姿勢をとり自己を防衛しようとします。ヘブライ人であることに自尊心を持つヨナは、別民族であるニネベの民に対して思いやるという態度は無く、都ニネベは悪に満ちた穢れた場所ということで軽蔑した目で見ていたことは明らかです。神は、そのようにヨナが忌み嫌う場所に行って民を悔い改めるよう命じましたが、ヨナにとって受け入れがたいことでした。 それは、自分の意に反することを神は命令したからです。ヨナはそのつらさを避けるために選択した行動、それは、逃げることでした。 ヨナの乗った船は出航すると、海は大荒れになり、乗組員たちは恐怖に陥ります。乗組員たちはこの災難は誰かの罪のせいだと考えました。そのため、罪人を探すため、くじ引きをしますと、ヨナに当たります。ヨナは主の前から逃げるために乗船したことを白状致します。そして、ヨナは皆に手足を捕らえ、海に放り込むように言いました。この自らを犠牲にする行為は、罪を告白し、赦しを請うことと同時に神への感謝としての捧げものとしての意味がありました。 ヨナにおける罪とは、関係の断絶と言ってよいでしょう。ヨナは、神の意に反する行為をし、神との関係が離れていきました。そのように関係を断絶するわけでありますが、その誤った関係をいつまでも持続することはできません。それは、外部からの力によって、罪の意識を促されるからです。ヨナの場合は、主が大風を海に向かって放たれて、海は大荒れになることで、ヨナは自らの罪を告白せざるをえませんでした。そのような不信仰が引き起こす危機的状況は、神からの働きかけによって罪の気づきへと促されます。 そのとき、私たちは罪を告白し悔い改めるということが重要となります。そのように悔い改めるならば、神は無条件にあなたが神のもとへ帰ることを赦されます。罪を告白し悔い改めるということは、神との関係が離れていたことに気づき、神との交わりを修復して頂くよう願う信仰告白なのです。そのように真剣に悔い改めるのなら、神から赦しが必ず与えられるのです。ヨナの場合、大魚に飲まれ、主に祈りを捧げながら三日三晩、魚の中で過ごします。そのように神から離れていたという罪を認め、悔い改めるのならば、神のもとに帰ることを赦されます。そして、大魚の中に保護されるように、神は私たちのことを守って下さるのです。罪の告白を伴う真の信仰告白により、神から赦しが与えられ、神の庇護の中で生きることに召されるのです。 #
by mizo_church
| 2015-10-23 23:13
| 礼拝メッセージ集
マタイによる福音書13・24〜30
天の国は畑のようなところです。イエスさまはそうお話をはじめました。ある人が良い種を蒔きました。すると、みんなが眠っている間に、悪い人が来て畑に毒麦を蒔きました。さて、麦は芽を出し育ちました。 困ったことに、良い麦に混じって毒麦も育ってしまいました。 みんなだったらどうするかな? 今のうちに毒麦を抜いてしまおう、と考えるよね。 しかし、畑の主人は放っておきなさい、と言いました。 もしも、毒麦を抜くと良い麦まで抜いてしまうかもしれません。 毒麦を抜くことばかり考えていると、かえって畑を荒らしてしまうかもしれません。 主人は、人々に教えました。悪い麦を抜くのは皆の仕事ではありません。良い麦を育てることが大事な仕事ですよ、って。 主人とは、神様のことです。 もしかしたら、良い麦は私達かもしれません。毒麦に負けないように育つようにと、神様が私達を見守ってくれています。 もしかしたら、良い麦を育てる人々とは、私達のことかもしれません。 渥美清という俳優さんがいました。清君が子どもの時、教室の後ろに座っていました。みんなは一生懸命勉強しています。でも、清君だけは、いつもぼんやりしています。誰も、清君をきにかけません。先生も生徒も疲れて一息つくときがきます。そのときが清君の出番でした。先生は、手を休めて清君を見ます。清くんはにこっと笑います。先生も笑います。すると子ども達みんなが清君を振り返ってにこっと笑います。そんな空気が流れたあと、先生は再び授業を始めるのです。 好きになれない友達がいるかな。清くんみたいに一生懸命勉強しない子がいるかな? でも、人をのけ者にしない畑。みんなが一緒に過ごせる畑は、すてきな所です。 畑とは、私達の心かもしれません。 良い麦と毒麦は、私達の心の中にも入り交じっています。 良い麦を精一杯成長させて過ごしたいと思います。 神様は、私達に良い麦になりなさい、と言って、 私達を育ててくださいます。 私達の心に良い麦をたくさん実らせましょう。 #
by mizo_church
| 2015-10-17 18:18
| 礼拝メッセージ集
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